赤鬼青鬼 11

 私は先生に、気分が優れないので帰ります、と告げると、おおそうか、お大事に、一人で帰れるのか? となり、そこへすかさず唯子ちゃんが名乗り出て、先生、あたしが送っていきます。大丈夫ですから。はい、いえいえ心配しないでください。それでは。鞘、行こう。……などといった強引な手口で教職員の男性(41)を丸め込み、同級生の少女、松島鞘さん(17)を連れ去った疑い。なんてね。でも本当に先生達は唯子ちゃんに甘いなあ、唯子ちゃんをどうこうしようなんてもう諦めてるのかも。唯子ちゃんはああ見えてちゃんと勉強するし、宿題も忘れないし、体育もサボらない。学校からしてみればあの見た目がちょっと世間的にマズいだけで、本当はいい生徒なのだ。
 唯子ちゃんとの逃避行。いやそう言っちゃうと語弊があるけど。午後の授業をサボっただけなのに、秘密の共有みたいな、共犯みたいな、そんな雰囲気が嬉しいな。
「大丈夫だったねーさすが唯子ちゃん」
「まあね。ん? 『さすが』ってどういう意味だよおい」
「まあまあ」
 などとやりながら、靴箱で靴に履き替える私。唯子ちゃんの脱いだ上履きを見てまた少し鬱が戻る。唯子ちゃんが靴箱の蓋をあけようとして取っ手をつまんだままやや硬直しているのに気づいた。
「どしたの?」
「…………」
 唯子ちゃんは、蓋を、開ける。中には靴だけが入っていた。私がほっとしたのも束の間、唯子ちゃんが取り出したローファーは水浸しで、ぽたぽたと水滴が垂れている。
「は……はは……やってくれたなあ」顔は笑顔を作ろうとしてるけど唯子ちゃんの目元のピクピクが、ブチ切れ寸前を表していた。とぷん、という音。唯子ちゃんは靴をひっくり返すと、中に溜まった水が、ザーっと流れ出た。それを見て私も卒倒しそうだった。唯子ちゃんもうちょっと待っててね。悪い奴は私がやっつけるから……。
 ガン!
 というのは唯子ちゃんが靴箱を殴った音、廊下中に響き渡って。
「いくぞ、鞘」低い声で唯子ちゃんは言った。怒りを押し殺す強さだった。濡れたローファーに紺ハイソが染みる。

「うーわ天気いいねー」と唯子ちゃんは外に出て手を広げた。午後の日は高く昇り、澄んだ青が満天に広がっている。肌を照らす眩しさが心地いい。少し冷たい空気が肺の中をひんやりと綺麗にしていく。「出てきてよかったわ。こんな日に勉強なんてしとれんって。せっかくの天気に失礼ってもんでしょ」
 私は嬉しそうな唯子ちゃんを見て頬がゆるむ。私も、早退してよかったと思う。なんて素敵な日……。
「ね、唯子ちゃんちに行っていい?」
「はあ? 珍しい事言うねお前。いいよー来い来い」ははは。と笑う唯子ちゃんの小さな顔は今日も可愛いすぎる。この笑顔は誰にも渡さない。

 御器所で乗り換えて、地下鉄鶴舞線の原駅で降りる。唯子ちゃんの家はそこから十分ほど歩いたところにあった。唯子ちゃんは自転車を引きながら、私はその横を歩く。 唯子ちゃんの家は庭付き二階建て。家には誰もいなくて、唯子ちゃんが鍵を開ける。
「友達あげるのなんて久々かも」と、ちょっと照れたような顔。唯子ちゃんはすっかり『家モード』になってる。二回にある唯子ちゃんの部屋は、私の部屋と同じくらいの広さだけど、物が少なくてすっきりしている。私の部屋なんて服にぬいぐるみに雑誌に……いろんなものが散らばっていて、ひどい有様だからなあ。簡素なベッドに勉強机、本棚、クロゼット、化粧台。そのどれもがきちんと整理整頓されていて、こざっぱりしてる。化粧品の多さはさすがだなって思うけど。
「まあ……テレビもないしね、この部屋。特にすること無いかも」なんだか居心地悪そうにきょろきょろして、唯子ちゃんはベッドに腰掛けた。私はカーペットの上に座る。
 しかし私は意外な物を見つけてしまう。ショックだった。
「あっ」と先に声を発したのは唯子ちゃんだった。しまった、という顔。「これは、き……気にしないで」
 私が見つけたのは壁に貼られた、映画のポスター。粉雪の中で微笑む松島カンナの。私のお姉ちゃんの。
「唯子ちゃん……まで……」

 唯子ちゃんまでお姉ちゃんにとられてしまった。昔からなんでもそう。お姉ちゃんは美人で、賢くって、人当たりがよくて、みんなに好かれていた。みんなに優しくされて、みんなに可愛がられて。私はお姉ちゃんが人気者になるのはとても嬉しかった。私もお姉ちゃんのことが大好きだったから。
 だけど気づけば私は。
 お姉ちゃんが上京して、私は一人になってしまっていた。私は私ではなくって、『松島カンナの妹』だった。『鞘』ではない、『松島妹』。お姉ちゃんが主役の世界に、私は妹役として登場していただけの、ただの脇役。だけど主役はいなくなった。次の舞台へ行ってしまった。残された脇役は自分が主役になって、新しい舞台を始めなければいけない。いけないのに……そんなもの誰が見る? お姉ちゃん無しには価値がないってことに気づいてしまった私は、新しい主役を見つけなければならなかった。
 私の舞台の新しい主役。それが村上唯子ちゃんだった。
 唯子ちゃんはスターだった。今時ノーメイクでおかっぱが当たり前のようなあの学校の中で、一人だけ金髪で超ミニスカート、靴だって学校指定外の、グッチのローファーなんて履いていたし、体操服だってブランドのジャージだし、どんなに注意されても上級生に目を付けられても、そのスタイルを変えることはしなかった。そんな唯子ちゃんが、私には格好良く見えた。見た目に反して真面目に勉強してるところとか、その力強い生き方に……私は惚れたのだ。
 だから私は唯子ちゃんと仲良くなりたかった。唯子ちゃんのことをもっと知りたかった。そして唯子ちゃんに私のことを、見て欲しかった……。私無しには生きていけないって、思って欲しかった……。
「私は……。お姉ちゃんのいない世界で生きていこうって思ってたのに。こんなとこにまでお姉ちゃんがいるなんて……思わなかった……うう」
「おいおいおい、すーぐ泣くお前はもうー! 大袈裟なんだよマジでいちいち、あーあー、ほら、涙拭け、な?」
「私、わたし……」
「いいだろ別に、ポスターくらい貼らせろよ! これがなんだっつうんだよ! お前は自分の姉ちゃん見ただけで泣くんか! そんなに姉ちゃんが怖えんかて!」唯子ちゃんはポスターをバンバン叩いて怒鳴った。
「うう……」駄目だ、私、また唯子ちゃんを怒らせてる……。私がこんなにうじうじしてるからいけないんだ。気の短い唯子ちゃんには私の性格はきっと耐えられないんだ。だから私のことは嫌いなんだ……うう……、と思って涙、ますます溢れて。
「あたしさ、昔、あんたのお姉さんになりたかったんだ」
「私の、お姉ちゃん? どうして?」
「あ、違う違う、あんたと姉妹になりたかったわけじゃなくってさ、『松島カンナ』みたいになりたかったってこと」
「…………」
「才色兼備ってやつ? はは。うちの学校の先輩だもんね。噂はよく聞くよ。勉強も超出来て、綺麗で、モテて……あたしはそういうの目指してたんだけどなー。はっはは。なのにさ、見てよこの有様!」唯子ちゃんは手を広げて見せた。
 唯子ちゃんは確かに可愛くておしゃれ。制服を大胆に短くして、胸元もちょっと見せつつ、ポロのカーディガンを羽織っている。ミニスカートからは柔らかそうな太ももがすらりと伸び、紺のハイソックスまで続いている。くるくるにカールした金髪が肩に掛かり、その中には化粧の濃い、少し幼い顔がある。
「あたしが目指してたのってコレ? こんなんさー、ただの女子高生じゃん。あの学校じゃ確かにちょっと珍しいかもしれんけどさ、街に行けば私と同じ見た目の子いっぱいいるよ? マジで……こんな虚勢張ったって意味ないってのにさー、なんか方向性、どっかで間違えちゃって。才色兼備どころか、ただのギャル化した馬鹿女じゃん、これじゃ。それでも開き直ってさ、『勉強の出来るギャル』になろうとしてたんだけど、あたしみたいなのがちょっとくらい頑張ったって、勉強の方はやっぱりそれメインでやってる奴らには敵わないねー全然。最近もう、歯が立たないって感じ」
「そんなことない!」
 私は立ち上がった。唯子ちゃんはベッドに腰掛けて私を見上げている。このシチュエーション。
「唯子ちゃんが一番だよ」私は唯子ちゃんに近づいていく。
「え? 何だどうした急に」目をぱちくりさせる唯子ちゃん。
「私は、唯子ちゃんだけを見てた」
「はあ?」あんぐりしたまま固まっている。「ちょ、ちょっと!」
「だから唯子ちゃんも、私だけを見て。お姉ちゃんのことなんか、もう忘れて」
 私はベッドに唯子ちゃんを押し倒す。小柄な体。いとしい唯子ちゃんの。温かい肌。私はその頬に触れる。
「唯子ちゃんは、私のこと嫌い?」
「…………」唯子ちゃんは目に涙をためて、じっと私のことを見ていた。まるで電池が切れちゃったかのように。
「そんなことないよね。私、分かるもん。今、唯子ちゃん青色だから……」
「青……? なん……だよ、マジで、やめてよ……」小さな声で呟く唯子ちゃん。柔らかそうな唇が、悲しげにわなないている。
 私は胸のドキドキが収まらない。熱い血液が胸を、アタマを、ぱんぱんにしている。あの唯子ちゃんが、今、私の手の中にあるのだ。
「私、こう見えても、人を見る目があるんだ。だから知ってる。唯子ちゃんが私を拒めないってことを……」