片割れ (9)
a pair

 蒸されるような暑さで目が覚める。裸のまま眠っていたようだ。僕は布団をめくって上体を起こす。狭いシングルベッドにはもうひとり、有里香がまだ寝息を立てていた。あらわになった小さな肩が頼り無く上下している。その様子を見て僕は、いつのまにか微笑んでいた。
 この気持ちはなんだろう? 僕は今まで感じたことがないくらいに、有里香のことを今、大切に思っている。守ってやらなければいけないと思う。片割れを知ってしまったはずの僕に、こんなことはあり得ないはずなのに、これほどまでに僕は、有里香のことが、好きだ。片割れでない有里香とは、分かりあえることはないというのに……。
 でも、ほんとうのことなんて知らない方がいい。この気持ちの意味を考えても、事は良い方向には進まないだろう。もうひとりの僕とも、もう会わない方がいいのかもしれない。僕はこのまま、有里香のそばに居てやりたい。それはきっと僕にしかできないし、僕に出来ることはそのくらいしかない。幸い、今日は学校が休みだ。一日じゅう一緒にいられる。
 窓の外からは雨音が聞こえる。カーテンを開けると、結露した窓の向こうに雨粒が次々と落ちては弾けていた。
 僕は有里香に布団を肩までかけてから、エアコンをつけた。有里香は幸せそうな顔で、むにゃむにゃ、と寝言を呟く。僕もまた幸せな気持ちだった。この時間が、ずっと続けばいい。いつまでも、このままで……。

 テレビの電源を入れてニュース番組を探す。今日のニュースも破綻していた。世界中で起こっている出来事は、この世の終末そのものだった。海抜の急上昇による大津波、陸地の減少。相次ぐ震災。異常気象。建造物の原因不明の沈没。
 そして、人間の同時大量失踪。北欧のとある町で、町じゅうの人たちが、突然、姿を消したらしい。いくつもの破滅的なニュースのせいで感覚が麻痺してきているけれど、僕はこのニュースが流れたときには思わず目を凝らした。
 有里香の家族は二週間前に忽然と姿を消した。それ以来有里香は、たったひとりでこの家に住み、帰らぬ家族の帰りを待ち続けていたのだ。それは一体、どのくらいの辛さだったのだろう? 僕には有里香の気持ちは分からない。でも、有里香が辛いと言うのなら、僕は、それを守ってやらなければならないのだ。家族が見つかるまで、僕も一緒にこの家に住み、有里香のそばに居ようと思う。

 突如、携帯電話のベルがけたたましく叫ぶ。僕の携帯だ。僕はあわてて携帯電話を探して床に落ちていたそれを拾う。鳴り続ける着信音。僕はスピーカーを押さえて音を消しながら、有里香の方を見る。有里香は、うーん、と言って寝返りを打った。
 液晶画面の文字を見て僕の心臓は何故か大きく打った。
『着信 貴子』
「…………」
 僕は、この電話に出るべきなのだろうか? 有里香の部屋の中で……。ベルが二回鳴るあいだ悩んで、僕は携帯を持って部屋を出る。リビングまで行って、僕はようやくその電話に出る。
「もしもし」僕は言う。
『…………』電話の向こうからは、サー、という、雨音のようなノイズ音だけが聞こえる。
「貴子?」
『すぐに来……。い……喫茶店に……から』貴子は何かを言ったが、電波の入りが悪いのか、よく聞き取れなかった。
「もしもし、貴子!」
 電話はすぐに切れた。
 かろうじて聞き取れた、『喫茶店』という言葉。それに、『すぐに来て』と言っていたように聞こえた。どうしたんだろう、一体何が……。
 貴子が僕を呼んでいたとして、僕はその場所に行くべきだろうか。僕はもう、有里香のそばにいると決めたのだ。それはもう、揺るがない。
 僕は有里香の部屋に戻った。有里香はまだ、気持ちよさそうに眠っている。有里香の愛らしい寝顔。だが僕は、あろう事か、貴子のことを思い出していた。
 なんなんだ、一体……。貴子は、一体、何を言おうとしたんだろうか。そのことが気になって仕方がない。貴子の言う『喫茶店』は、僕と貴子がよく学校帰りに会っていた、駅前の喫茶店のことを指しているに違いない。貴子はきっとそこで、僕を待っているのだ。あの子は、放っておくと何をしでかすか分からない。それに、今世間はこんなにも物騒なのだ。何か事件に巻き込まれたら、ただでは済まないだろう。
「ああ、もう……」僕は苛立ちにも似た感情を覚え、声に出してそう呟いた。僕はベッドの有里香の顔を見て、有里香と、貴子を、天秤にかけようとしていた。有里香のことは、確かに好きだ。だが、貴子には、有里香との間にはない、歴史がある。
 まだ僕が貴子と付き合っていた頃、僕はまだ、《片割れ》を知らなかった。僕はあのとき確かに、貴子がもうひとつのパズルのピースだと思って疑わなかった。僕のピースにはまるのは、この世界でただひとり貴子だけだと僕は信じていた。だがそれは間違っていた。貴子は僕のことを理解してはいなかったし、僕も貴子の気持ちはなにひとつ分からないままだった。貴子は僕の片割れではなかったのだ。それでも貴子の身を案ずる気持ちは、今でも消えてはいない。
 僕は有里香の寝顔に目を落とす。
 昨夜、有里香は言った。真実を知ってもなお残るこの感情こそが、僕の本当の優しさなんだと。
「有里香……」
 僕は心に決める。……すぐに帰ってくる。僕は有里香のものだ。メモを残し、僕は有里香のマンションを後にする。

 僕は自転車に乗り、借りてきた有里香の傘を差す。空には真っ黒な雨雲が広がり、雨はしとしとと降り続けている。人肌のようにぬるく肌にまとわりつく湿度。しかし僕はそのとき、妙な感じがした。においだ。むせかえるような甘い匂いが、雨の街を満たしているのだ。一体、何の匂いなのだろう。
 僕は所々に出来た水たまりをよけながら駅に向かう。そして僕はさらに気づく。水たまりの色がおかしい。濁った橙色をしているのだ。
「まさか……」
 僕は自転車を止め、傘から手を出して、雨を掌に取り、それをなめてみる。
 甘い柑橘系の味。オレンジ……いや、グレープフルーツジュースだ。この雨はグレープフルーツジュースだったのだ。

 ジュースの雨脚は強く、自転車をこぎながら差す傘の中まで降り込んでくる。甘い湿気が体に張り付いていく。
 有里香の家を出て五分ほどのところで、空が一度だけぴかりと強く光った。強烈な閃光。僕の影が水たまりだらけの道路に焼き付けられた。僕はしばらく目がくらむ。視界は白黒にちかちかとめまぐるしく点灯し、僕は自転車を止めてじっと目を押さえた。
 目が慣れて、顔を上げると、僕が立っていた。傘も差さず、ジュースの雨にずぶぬれになりながら佇んでいた。
「やっと会えた」と僕は言った。僕の片手にはきらりと光る何かがあった。抜き身のバタフライナイフだった。僕は自転車から降りる。
「どうしたんだい」言ってから、僕は身をこわばらせて驚いた。突然、強烈な感情が僕から突風のように流れ込んできたのだ。……なんてひどい絶望。強い悲しみが、この雨のようにどうしようもなく染みこんでくる。
「君は僕とは正反対の気持ちのようだね」その僕は言った。「教えてやろうか、君がどうして、有里香と抱き合うことで満たされた気持ちになることができたのか」
「ききたくないよ」僕は首を振る。「僕のこの気持ちが、偽物だということくらい、僕は分かってるんだ。それで十分だろう?」
「いや、君は分かってないんだ」僕は言う。「僕もかつて、そうだった」
 僕はナイフを持たない方の手をすっと傘を差す僕に伸ばし、近づける。僕の手が僕との距離を縮めるほどに、情報が大量に流れ込んでくる。その情報量に僕は一瞬の吐き気を覚える。だが、僕は、反射的に身を反らし、それを避けてしまう。
「どうして拒む?」僕は言った。「まあいい。……キスをして、抱き合って、なんとなく満たされた気持ちになるのは、そもそも人間がそういうふうに作られているからだ。片割れ以外の相手でも満足できるように、人間には恋愛という機能が備わっているんだ。僕たちのように特殊な例でなければ、大多数の人間は、自分の片割れに会うこともなく死んでいかざるをえないからだ」
「そんなことは分かっているよ」
「だから、分かっていないと言っているだろう?」ナイフを持った僕は強い口調で言う。「片割れのいない世界が長かった僕らは、まだ片割れというものを完全に受け入れていないんだ。だから、まだこの不毛な世界で暮らしていくことが出来ているんだ。だがそんな人生なんてやはり不毛で、どうしようもない。絶望そのものだ。片割れの存在を知ってしまった僕らが、この絶望から逃れるには、ただ片割れに会っただけでは、足りないんだ。僕らはまだ《不完全》のままなんだ」
「不完全?」
「そう。不完全なんだよ、僕たちは。片割れというのは、ふたりでひとつ、パーツをあわせてようやく《完全》なんだ。僕たちは……《完全人間》にならなくてはいけないんだ。僕は、その方法を教えてもらった」
「完全になるとどうなる?」
「もう恋愛なんてしなくてもよくなるだろうね。それから、こんな世界に留まる必要もなくなる。なにものも欲さず、なにものからも求められない。たったひとりで完結した存在になるんだ。分かるだろう? それが人間というもののゴールなんだ」
「そう……」僕は言う。「それは困るね」
「どうしてだい?」
「今ここで、《完全》とやらになってしまうのは困る。僕はこのあと、用事を済ませて、有里香のもとに帰らなくてはいけないんだ。そうメモを残してきたから」
「ははっ」と僕は笑った。僕と同じ笑い方だった。「さすが僕だね、言うことが違う。……僕は《貴子》に会った。かつて君と付き合っていた女だ」
 僕はそれを既に知っていた。さっき僕から流れ込んできた情報は殆どが貴子についての感情だったのだ。僕はもうひとつの世界で、もうひとりの《貴子》、つまり貴子の《片割れ》に出会った。
「だけど、僕が君と会ってからなんだ。僕が《貴子》のことを好きになったのは……。どうしてだと思う?」
「さあ?」僕は言った。
 僕は、ぶうん、とナイフを真一文字に振った。それは僕の傘をかすめて、切れた布地はだらりと垂れ下がった。僕の自転車が倒れた。
「君のせいなんだ。僕の感情は、つまり君の感情だ。君はまだ、彼女のことが忘れられないんだ」
「そんなことはない」僕は言う。「僕にはもう有里香がいるし、貴子とはもうただの友達なんだ」
「自分に嘘をつくことなんてできると思ってるのかい?」僕はナイフを突き出して僕の胸を直線的に狙う。僕は壁を背にして際どいところで腕を払って避ける。危ないところだった。僕は傘を捨てる。
「僕はこんな感情、欲しくはなかったんだ。誰かを好きになる気持ちなんて、僕はもともと持っていなかった。僕は欠けていたんだ。君と同じように」
 次は目を狙え。僕の強い思念が僕の脳にぶつかる。はっとして、僕は頭を低くしてかわす。ナイフは僕の目があったあたりの壁に、かつんと突き立てられる。
「そのかわりに、君は他人の気持ちを理解する能力が極端に低いはずだ。コミュニケーションとは逆の能力、つまり、アンテナの感度の問題だ。そうだろう?」
 袈裟に切れ。僕は僕の思考を知っている。僕は左に飛んでそれをよけた。
 オレンジ色の甘い雨は容赦なく降り続ける。僕たちは服を着たままプールに飛び込んだみたいにずぶ濡れになっていた。
「だから君はかつて、《貴子》という欠けた人間に惹かれたんだ。彼女の送信能力欠如、きみの受信能力不足―――一見これらはかみ合わないように見える。だが君たちはお互いがパズルのピースであるかのようにぴたりと一致した。一致したと思っていた。そんなのは勘違いなのに。ただ単に、お互いが自分の片割れに似たピースだったに過ぎないのに、な!」
 もう一度正面。僕は正面を突いてきたナイフを、腕ごと掴む。だがその腕の力は強く、両手で押さえているのにもかかわらず、ナイフを持つ手がぐいぐいと心臓に近づいてくる。
「どうして、僕を殺そうとする?」
「僕は誰かを好きになんてなりたくはなかったんだ。たったそれだけのことが、こんなに苦しいとは思わなかったから。ただ分かりあえないというだけのことが、これほどまでに辛いとは思わなかったんだ。だから僕はこの感情をもう一度捨てるために、《完全人間》になるんだ。君を、いや、僕を殺して……」
 ナイフを持つ僕の手からは強い怒りと悲しみの感情が流れてくる。その強い感情は、今までの僕になかったものだった。僕は何かに対してこれほどまで感情的になってことなんて、考えてみれば今まで一度もなかった。僕に足りないものは、やはり、もうひとりの僕が持っていたのだ。
 そのとき僕は流れ込んできた悲しい感情の波に感化されて、吐き気のするような速度で心が悲しみに浸食された。
 べたつく甘い雨に濡れながら、僕の目からは、涙が流れていた。僕たちの目には、同じ涙が流れていた。
「どうしてこんなことをするの? 君は僕を殺せない。君には自殺をする覚悟なんてないじゃないか」
 僕の力がゆるんだ。ナイフが水たまりにびしゃりと落ちた。

 僕の体に景色が透け始めた。ふたつの世界の距離が離れていくのが分かる。
「辛い気持ちはいつかは消える」僕は僕に向かって言った。
 僕の体の色はどんどん薄らいでいく。
「どんな苦しみだって、時が経てば癒えるんだ」
 僕は涙を流したままだった。
「それはいつ? 来月? 来年? それとも十年後? 僕はそれまで、何をしていろというんだ?」
 僕は何も言えなかった。世界が離れ、彼の存在はこの場所から消え去った。向こう側の世界に帰っていったのだ。
 僕には彼の苦しみが分かった。僕以外の誰にも、彼の気持ちは理解できないだろう。
 高々女に振られたくらいで―――僕でなければそう言ってあしらうだけだ。確かに、言葉にしてしまえばたったそれだけのことなのだ。それなのに、あんなにも苦しまなければならない。それがこの世界のくだらない仕組みだから。
 彼はその仕組みを受け入れなかった。
 だが僕はそれを受け入れた。
 すべてを知ってもなお、片割れでない有里香とともに、また不毛な恋愛をするのだ。
 意味のないことで喜び、誤解して、傷つけあって、また抱き合って。
 だけど、
 それはどんなに素敵なことだろう?

 七月だというのに、この雨の中気温はますます下がっていき、濡れた僕の肌を冷やす。まるでこの雨が雪にでも変わりそうなほど寒い。僕はひとつ身震いをして、壊れた傘を拾い、自転車を起こして歩き始める。
 水たまりにはバタフライナイフが落ちている。