幸福論 III
thehappiness

 返ってきた答案には、軒並み無惨な点数が刻まれていた。
 広岸は点数が悪いことよりも、むしろこれにより発生した補習やら追試やらにうんざりしていた。
(はあ……こんなことなら少しくらいは勉強した方がよかったのか)
 横から広岸の答案を覗き見て、夏雄は言った。
「おーおー、こりゃまたえらい点数並べたもんだ。新記録じゃねえのか?」
 夏雄はといえば、殆どの課目を赤点プラス二・三点というギリギリで回避し、一課目も赤点を出さないという離れ業を見せていた。
 広岸にとって、夏雄のこういうところが気に食わないのだ。
 極限まで力を抜いて危機を回避し、うまく生きる方法をこいつは知っているんだ、と広岸は思っていた。

  *

「で、どーなのよ、その彼氏ってのは」
 バニラシェイクのストローを口から離し、秋保が言うと、幸は恥ずかしそうに答えた。
「や、やさしいよ、すごく。それに、かっこいいし」
 すっ、と秋保の手が伸び、幸の目の前に差し出される。
「プリクラ、あるんでしょ?」
 まるで借金取りのような口ぶりに、幸は仕方なく自分の携帯を差し出した。
 携帯の裏には、プリクラが貼ってあった。幸と、広岸が写っている。
「ふ〜ん」
 秋保は鑑定するような目でプリクラの中の広岸を睨み、
「まあ、いいけどね」
 と、よく分からないリアクションをして携帯をよこした。

 つい最近秋保は、中学の時から付き合っていた彼氏と別れたばかりらしい。
 その別れ話や愚痴を聞かせるために、幸は学校帰りのハンバーガーショップに(半強制的に)誘われたのだ。
 秋保は、相当まいっているようだった。普段さばさばしていてクールに振舞っている彼女も、恋愛のことでこんな風になってしまうんだ、と幸は思った。
 だからなるべく、広岸の話題は出したくはなかった。
 幸にとって、他人の辛さは、自分の痛みよりも耐え難いものなのだ。

 広岸。
 生きていく不安を取り除いてくれる、ただひとりのひと。
 幸は、広岸に告白した先週の日曜日の事を思い出した。
 ―――私たち、付き合ってるのかな。
 幸がそう言ったときの、あの広岸の顔がどうしても忘れることができなかった。
 悲しみとも取れる、思いつめたような、あの顔。

  *

 休憩室、煙草の煙が染み付いた革のソファに寝転がり、広岸はぼうっと備え付けのテレビを見ていた。
「お前、今日はどこだっけ?」
 と、作業服に袖を通しながら夏雄は尋ねる。
「俺は今日はもう上がりだよ。午前中だったからな。お前は今から?」
 広岸が訊き返すと夏雄は嬉しそうに、
「ああ。ナントカっつー病院の『電気設備の点検』だってよ」
 と答えた。
「マジ? アレ系ってすげえ楽じゃん」
 広岸と夏雄は、揃って同じ、人材派遣のアルバイトをしていた。
 派遣会社に自分達を登録し、空いている時間を端末に入力しておけば、コンピュータが勝手に仕事を割り当ててくれるのだ。
「へへへ。じゃあ行ってきますよ。じゃーね、お疲れ様、広岸クン」
 足取り軽く休憩室を出て行く夏雄の背中を、広岸は恨めしそうに睨んだ。
(畜生、俺なんか滅茶苦茶疲れたっつーのに、なんでこいつだけ)

 滅入ったとき、思い浮かぶのは、十子ではなく幸の顔だった。
 こんなことは今までなかった。

 その週の日曜日、昼から幸といつものホテルに入った。
 広岸は、幸のやわらかな胸に顔を埋めた。眠たくなるような安心感。
(今は、ここが俺の帰ってくるべき場所なのかもしれない)
 目を瞑り、甘えるように幸の胸でじっとしている広岸を見て、幸は微笑んだ。
「これじゃあ、どっちが年下なのか分かんないね」
 幸はやさしく広岸の髪を撫でた。

 六月に入り、二年生が修学旅行を終えると、とうとう雨の止まない日々が始まった。
 だが幸と会う日だけは、何故か必ず、計ったように雨雲は退いていった。
 思えば、雨の日に幸と会ったことは今まで一度も無かったし、広岸も心のどこかで、確信に近いものを感じていた。
 幸は、晴れを呼ぶ、と。
(もしくは、このはっきりしない連日の天気のように、やりきれなく腐っていた俺の心も―――)

 その日の学校が終わる頃には、雨はもう霧雨になっていて、広岸は傘をささずに駅まで歩いた。
 電車に乗り、携帯を見るとメールが入っていた。それが幸からのものであることは見るまでも無かった。
『そうそう、この前言ってたアキホね、彼氏とヨリ戻ったんだって! よかったよ〜(T-T)』
(アキホって、ええと、誰だったっけ―――)
 幸の出す友人達の名前は多すぎて、誰が誰なのかよく覚えていない。

 電車を下り、改札を抜け、広岸は踏切の前で電車が通り過ぎるのを待っていた。
「広、岸……?」
 カンカンと響く踏切と、通り過ぎる電車の轟音の中、その声は独立して広岸の耳に聴こえた。
 聴き覚えのある、女の子の声。
 だがそれは十子のものではないということも、同時に分かっていた。
 振り向くと、そこにいたのは都奈実となみだった。
「やっぱり、広岸だ」
 照れくさそうに笑う都奈実。
 都奈実は中学の同級生で、十子の親友でもある。広岸とは十子の繋がりで知り合い、まるで男友達のような関係だった。
「うわ、でかっ」
 広岸を見上げて、都奈実は言った。
「昔はあたしの方が大きかったのにね」
 背の高い女の子、というイメージが強かった都奈実も、今となっては広岸が見下ろす程になってしまった。
(なんだろう、ひどくがっかりだ)
 都奈実と並んで歩きながら、中学校の頃の話をした。あの時の同級生は、最近どこで見かけたとか、あいつはあんなに変わった、とか。
(確かに俺は昔、都奈実の背を追い越したかった。だけどその一方で、都奈実には、俺より高くあって欲しかった。何も変わらないことを望むのは、いけないことだろうか)
 それでも都奈実は、あの頃と変わってはいなかった。
(そうだ、変わってしまったのは、俺だ。十子は―――どうなんだろう。今の十子を知りたい、どうしようもなく)
 高校の制服に身を包んだ都奈実。
 その口から懐かしい名前が次々と出てきたが、気を遣っているのか、十子の名前は一度も出てこなかった。