幸福論 II
thehappiness

 頭上の巨大な液晶を見上げ、無数にある三色の光がきらきらと流れる様を眺めていた。
 幸は少しだけ遅れてやってきた。
 広岸は電車で、幸はバスでこの駅までやってくるので、お互い時間の微調整は難しい。
 広岸の姿を認めると、幸は笑顔を押さえながら足を速めて広岸の元へ駆け寄る。
「ごめんね、バスが遅れちゃってて」
 幸は肩の大きく開いた赤い服を着て、小さな黒のバッグをその手に握っている。
 ひとからは“大人びて見られる”らしい幸は、今風の、幸の言には“オネエ系”の格好をしていた。
 こうしているとまるで同い年か、もしくは幸の方が年上のように見えないことも無い。
 二人は歩き出し、広岸は肩に手を回そうかとも思ったが、丸ごと覗いたその肩に直接触れることになるので諦めた。

 幸と会うのは三週間ぶりだった。
 名目上(あくまで名目上だが)、中間試験の勉強と、ピアノの練習のために、自粛していたのだ。
 結局そのどちらも、予想し得る最悪の結果になってしまったのだが。
 でも、今となってはもうどうでもいい、という気になっている。
 どんなことであれ、終わってしまえば、たいした事は無いのだ。
「うー、そんなに見ないでよ」
 考え事をしながらぼうっと虚を眺めていたら、結果として幸の脱衣を見つめることになってしまった。
「あ、ああ、悪い」

 この手の施設のほとんどは、脱衣室の扉が設けられていない事に気付き、まあ、そういう目的の建物なのだから仕方がないか、と広岸はそんなことを考えながらベッドで大の字になった。
 シャワーの栓を締める音が聞こえると、腰に巻いたバスタオルを取り、使用感の全く感じられない清潔なシーツの中に潜り込んだ。

 幸の体は、華奢で柔らかい。
 女の子としてそれほど小さい方ではないが、それでも広岸の腕に納まるには十二分であり、ベッドの上に座り、幸を背中から抱きしめてはその体じゅうを唇で、指で、なぞっていた。そのたびに幸は薄く声を漏らす。
 まだ少し湿った幸の肌。
 幸の、甘い匂い。

 幸を抱きながら、ふいに、幸の姿に十子が重なった。
 十子も今どこかで、普段見せない姿、普段出さない声を、こうやって男に見せ、聞かせ、こんな気持ちにさせているのだろうか。
 いや、むしろそれならまだいいのかもしれない、と広岸は思った。
 俺の知らないどこかで、あの閉ざした心を開いてくれる、俺以外の誰かに出会っていてくれれば、どんなに安心だろう、と。

 終わった後、ベッドの中で幸は広岸にじゃれるように寄り添い、肩に頬を寄せた。
「会いたかった」
 幸は、さも大切そうに、会いたかった、ともう一度呟いた。

 生きにくい世の中だ、と広岸は日々感じていた。
 歩こうとすれば必ず壁に当たるのに、立ち止まることを許してはくれない。
 だから慰めあう相手が必要になった。それだけのことだった。
 自慰に近い、一方通行のセックスだった。少なくとも、広岸にとっては。
「ねえ」
 それなのに。
「私達、付き合ってるのかな」

 幸と駅につくと、丁度電車が駅に入ってくるのが見えた。
 広岸は慌てて幸と別れ、改札を定期で通り、階段を駆け下り、電車に乗り込んだ。

(まさか、こんなことになるとはな)
 電車の座席に座り、ポケットから携帯を取り出した。
 確かに、ここ数日の幸からのメールの量は増えている。
 鈍感だ、と広岸は思った。幸が自分に恋愛感情を抱いているなんて、全く気付かなかった。あのころもきっと、こうして色んなものを見落としていたんだ。
 ―――私達、付き合ってるのかな。
 ―――……違うんじゃない?
 ―――じゃあ、付き合って、ください。好きです、ヒロ君のこと。
(十子、俺たちの始まりはどんなだったか覚えてるか)
 ―――私達、付き合ってるのかな。
(五年前、確かにお前もそう言ったんだぞ、十子)
 時が経つにつれ、少しずつ薄れていく記憶。
 その中で決して忘れられない一言が、確かに、あった。
(幸と付き合えば、お前のこと、忘れられるんだろうか。そうすることで、俺は前に進めるようになるのだろうか)

 晩、幸から電話がかかってきた。
 他愛も無い、学校や試験についての話題。
 しかし幸が本当に聞きたい言葉は分かっていた。広岸の、結局うやむやになった昼間の返事を待っているのだ。
「いいよ」
 広岸は言った。電話の先には、五年前の十子がいるような気がした。
「付き合おう、俺たち」
 この日から広岸は、幸と付き合うことになった。