04 久の江 2
living in Qnoe

 時間が流れが遅い。久の江に来てからはつくづくそう思う。あの家の時計は止まっているし、テレビもラジオも無いせいで時間というものを調べる手段がない。そもそもにおいて今が何時何分なのかということを知る必要がないのだ。人間が時間を数値でもって表現するようになったのはいつ頃からだろうか。そんなことを一体誰が思いついたのだろうか。かつて人間が狩猟と採集で生きていた頃は少なくとも細かい時間を知る必要はなかったはずだ。日が昇れば朝だし、真上に日が来れば昼、沈めば夜。時計なんて無くてもそのくらいは一目瞭然で、時間の表現としてその程度の分解能で十分だったのだ。だがいつの間にか社会は時計の針によって動かされるようになってしまった。刻一刻と株価は変動するし、電車は一分だって遅れることが許されない。学校も企業もすべて分単位でスケジューリングされているし、もちろん、デートの待ち合わせにだって時計が必須なのだ。狩猟生活のころよりは、社会が複雑化したせいで、やらなければならないことが多すぎるのだ。食料を確保して生き続けるために生きていた、大昔の時代と今は違う。朝起きてテレビをつけ、朝食をとって歯を磨いて着替えて、学校へ行って授業を受けてチャイムが鳴るのを待ち、昼休みになったら食堂に並んで……。そういった本質的でないことを円滑に運ぶためには、一日をより高い分解能で分割して、無駄の無いように時間を割り当てなければいけなくなってしまったのだ。
 学校へ行かなくてはならないのも、勉強をしなくてはならないのも、人間の本質ではないはずなのに、いつの間にかそうではなくなっている。食料を得たり、寝食の場所を手に入れたりするためのプロセスが、文明の発達とともに複雑になりすぎてしまった。本当にしなければいけないことが見失われ、生きていくために必要なことがどんどん遠回しにされて、こんな分かりにくい社会になってしまったのだ。
 縁側に座り、雲の流れていく様を目で追っていると、そんなどうでもいいことばかり考えてしまう。人間、暇すぎるのも問題があるのかもしれない。忙しいときには考えなくて済んでいたことにさえ思考が及んでしまう。あの下らない社会に汚染された悪い癖だ。久の江に来たからには、もうそんなことを考える必要はないのだ。思考活動というものは、もうこの久の江では意味を持たないのだから。
 忘れよう、何もかも……。
 心を無にするのだ。この空みたいに。
 そうすれば少しは面白いかも知れない。
 何が?
 楽しもう。
 何を?
 そうだろ?

 僕の隣には美佐奈が座っていて、僕と同じように空を見上げている。彼女は今何を考えているだろう? ただ単に僕の真似をしているだけなのだろうか。
 カレーを作り終え、夕飯まではまだ結構時間がある。
「どこか行こうか?」と僕が訊くと、彼女は、
「学校……」空を見ながらつぶやいて、「なんてね」と付け足した。
 美佐奈は高校を一年で中退している。彼女は空を見ながら学生時代のことでも思い出していたのだろうか。
 僕は立ち上がってトラックの方へ向かう。
「どこへ行くの?」不安げな声で僕の背中に問いかける。
「学校、行くんでしょ?」
「じょ、冗談だよう。いいよ、行くはずないよ」
 びっ、と僕は丘の上から久の江の中央部あたりを指差した。「あそこの事だよ」
「え?」
 僕の差す指の先には、確かに学校があった。久の江の中心に、この田舎におおよそ不釣り合いなコンクリートの建造物群。プールがあって、グラウンドもあって。それはどこからどう見ても確かに学校だった。
「M高に戻ると思った?」僕は意地悪っぽく言ってみた。美佐奈は、むっと頬を膨らませている。「まさかね」と僕は呟く。なにせM高まではこの軽トラックなら半日はかかる。それに、もう、戻り道なんて分からない。

 そのとき、妙な音がして。いや、したような気がして、僕はもう一度空を見上げる。
「…………」
「どうかしたの?」と訝しげに美佐奈。
「隠れろ、美佐奈」僕は押し殺した声で言った。
 僕は戸惑う美佐奈の手を引いて、家の縁側から土足のまま和室に駆け込んだ。美佐奈は抵抗せずに、神妙な面持ちで僕に従い、僕の次の言葉を待っているようだった。そして案の定、その音は大きくなっていき、予感は確信に変わった。
 ぶろろろろろろろろろらららららららららら。
 ヘリコプターのローター音。耳を劈《つんざ》く大きな大きな音。僕たちは静かに家の中に身を潜める。音はとても近く、なかなか遠ざからない。低空を舐めるように飛んでいるのだ。まるで海に落とした指輪でも探しているかのように。
 ヘリが入り江の方へ向かっていったのを見て、僕はようやく肩をなで下ろす。
「ちょっと、危なかったかな」と僕は言った。すると何故か美佐奈は、お気楽そうに「どきどきしちゃった」と子供っぽく微笑んだ。
 ヘリコプターはその後も久の江の上空を鳶《とんび》のように何度もたっぷりと旋回して帰って行った。三十分くらい。その間僕らは見つからないようにするため家から出ることができなかった。和室の畳の上で寝てしまっていた美佐奈を起こしてトラックに乗せ、僕らは学校へ向かった。

 日はまだ比較的高い。暗くなるまでにはまだ時間がある。十分ほど車を走らせて久の江の中心部までやってくると、鬱蒼とした樹木に囲まれて、背の高い大きなコンクリートの建物が見えた。田舎にしては大きな校舎が二つ、並んでいる。大小の二つの校舎はすっかり蔦《つた》に浸食されていて、朽ちた大木のように暗く圧倒的な存在感があった。
 周りを囲むちょっとした森を抜けると、学校を一周する高い塀に突き当たった。古めかしい煉瓦造りの塀はやはり朽ちかかっていて、一メートルほどの高さまで蔦が昇っていた。さらに車を塀に沿って走らせ、校門を見つけた。『学校法人九暁学園』とある。門自体は開きっぱなしになっていた。中まで入っていくと、左手にグラウンドが見えた。どのくらいの間整備されていなかったのか、周囲には雑草が生い茂り、地面はでこぼこに荒れていたが、面積はM高のグラウンドの二倍以上ある。右手の体育館は二階建てのようだった。運動が盛んだったのだろうか。こんな辺鄙な場所にあった学校にしては、なにもかもが不気味なほど大規模だった。突き当たりには大きい方の校舎が見えた。その玄関の付近に車を停める。
「大きな学校だね」校舎を見上げ、感心したように美佐奈は言う。「生徒も沢山いたのかな」
 玄関の鍵は閉まっていた。ガラス製の引き戸が六枚並んでいたが、どれも鍵がかけられていて、びくともしなかった。
「諦める?」と美佐奈は言う。
「まさか」と僕は言う。校舎の脇の花壇から手頃な大きさの煉瓦ブロックを持ち上げる。「どうせもう誰も来ないんだ」
 甲高い大きな音が響いた。ガラスが砕けて散らばる音。重たい煉瓦の力は予想より強く、障子紙のように簡単にガラスを破った。
 ドアの枠を蹴って、枠に残ったガラスの破片を落とす。そこから手を入れて、裏側にある鍵を開けた。僕らは、お化け屋敷を探検するみたいに、この死んだ学校の中へ入っていく。