03 邂逅 2
encounter

 僕と美佐奈は教師に見つからないように、注意深く食堂を出た。まだ授業中の静かな校内を歩く。足早に歩を進める僕の後ろを、変装した美佐奈がついてくる。
「どこへ行くんですか?」と美佐奈は言った。
「さあ」そっけなく僕は言う。
「いつも、こんなことをしてるんですか?」
「こんなこと?」
「授業をサボって抜け出しちゃったり」
「そんなことはないよ。これが初めてだ」
「あれ、そうなんですかー。そんなふうには、見えないですけど」
「こう見えても、優等生なんだよ」
「優等生はこんなことしません」美佐奈は楽しそうに言った。

 校門を出た。昼下がりの街は人が少なかった。教師に見つかる危険が薄まったので歩を緩める。僕はとりあえず駅前の繁華街の方へ向かった。
「サングラス取ったら?」僕は言った。美佐奈はまだニット帽とサングラスという妙な格好のままだった。もう人目につく心配もない。
「やっぱり、ばれてました?」美佐奈はサングラスをとる。顔はあまり当時と変わっていないが、少し痩せたかもしれない。
「もしそれで変装出来てるつもりだったんなら、驚きだね」
「そうかなー……。でも、あなた以外は、誰も気づかなかったですよ。知ってる人とも、結構すれ違ったんですけどね。みんな薄情なんだからー」
 あんな格好で校内をうろうろしていても音沙汰が無かったなんて、それはそれでかなり問題があると思うが。それとも他人の振りをしていたのだろうか。
「朝倉さんこそ、いつも学食まで来て食べてるの?」
「最近は、そうですね。安さには代えられないです」
 追い出される危険を冒してまでわざわざ学校へ来るほど、お金が無いのだろうか?
「バイト代は、もう無いの?」
「引っ越しをしたんです。そしたら全部なくなりました」
「そう」
 面倒な話になりそうだったのでそれ以上踏み込まなかった。僕は、なんだかよくわからないが、むしゃくしゃしてきた。
「やっぱり、帰ろう」と僕は言った。「あんまり、気分が良くない」
「大丈夫ですか?」美佐奈は心配そうな顔をした。「帰るって、学校にですか?」
「まさか。家にだよ」
「そう、ですか……」美佐奈は立ち止まった。僕も立ち止まって彼女と向かい合う。
「じゃあ」と僕は言って美佐奈に背を向け、駅の方へ向かって歩き出した。美佐奈は追ってこなかった。
「あの……」背後から美佐奈の声がした。僕は立ち止まって振り返り、わざとらしく、「何?」と訊いた。彼女はなぜか少し焦っているように見えた。しばらく言葉に詰まったあと、彼女は「お昼、ごちそうさまでした」と呟くように言った。僕は彼女に再び背を向けて歩き出した。そして、右手を軽く挙げ、返事の代わりにした。

 さて……。
 こうして、特別な日が出来上がった。
 僕は今日生まれて初めて、授業をサボった。大事な模試の日だった。
 大学受験生としての人生が、少しだけ台無しになった。
 成績トップの優良生徒としての人生は、かなり台無しになった。
 今日の行為で、僕という人間の少年時代はどれだけ台無しになるのだろう? 僕の一生からするとどれだけの意味があったのだろう? 日本人の一人としての僕はどれだけ価値を失っただろう? 世界全体では? 太陽系の有機体としてはどれほどの損害だったのだろう?

 その夜、家に電話がかかってきた。僕は父と母と三人で暮らしていて、電話は母が出た。僕に取り次がれたその電話の相手は、美佐奈だった。携帯電話でなく自宅の電話に友達から電話が入るのは、とても珍しいことだった。
「こんばんわ」と美佐奈は感情の推し量れない平坦な調子で言った。
「こんばんわ」仕方なく僕はそう返した。一体、何の用事だろう?
「…………」
 美佐奈は突然黙り込んでしまった。しばらく無言が続く。何が言いたいんだろう……。
「何?」しびれを切らして僕は言う。
「あの、なんていうか、ですね、えっと……あの……」美佐奈はなんども「あの……」を繰り返す。
 僕は敢えて黙ってそれを聞き届けながら次の言葉を待つ。
「今日のお礼を言おうと思って……」ようやく美佐奈はそう口にする。
「そう」僕は言う。「でもお礼なら、もう聞いたよ」
「あ、えっと……」美佐奈はまた「あの……」を繰り返すモードに突入してしまう。
「用事が無いんなら、切るよ」
「あの……。怒ってます?」美佐奈は申し訳なさそうに呟いた。僕にはその意味が全く分からなかった。
「え? 何?」
「やっぱり、怒ってますよね……」
「だから、何?」
「携帯のこと……」
「は? 携帯?」僕は全く見当がつかない。「携帯が、どうしたの?」
「あの……携帯、ちゃんと、返しますから、明日、また……」
「返す? どういうこと?」段々と頭が混乱してくる。何を言ってるんだろう。「僕の携帯のこと? 携帯なら、ここに……」僕はポケットを探る。携帯は入っていない。ベッドにも、机にも、どこにも見あたらない。
「今、私が、持ってます」と美佐奈は小さな声で言った。
「何だって? どういうこと?」
「あの……あなた、携帯、その、落としたの……拾ったんです、私が」
「なんだ。そう……。助かったよ。ありがとう」僕は安心する。電車の中にでも忘れてきたら大変だ。
「えっ。いや、そうじゃなくて、ですね」
「……まだ何か?」
「あの、ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」美佐奈は何度も謝った。泣きそうな声だった。もしかして本当に泣いているかも知れない。「なんで、私、こんなことしたのか、私、こんなつもりじゃ、なかったんですよ」
「はっきり言ってくれない?」僕はわざと強い口調で言う。
「あの、拾ったというのは、嘘で……。あなたの、ポケットから、私、抜いたんです。携帯を……」
「…………」僕は絶句する。いつそんな隙があったのだろうか。それに、どうしてそんなことを。何のために? 全く理解が出来ない……。怒り、とは少し違う複雑な感情が湧き出てくる。「それ、返してくれる?」
「あの、怒ってますか?」
「怒ってない。返してくれるならね」
「怒ってますよね」
「怒ってるよ」
「…………」
 ツー。ツー。
 電話はそこで切れた。