片割れ (1)
a pair

 朝は七時に起き、学校までの電車に、一時間揺られる。電車はとても混雑している。降車の都合から僕は二両目に乗るが、座席はすでに埋まっており、その座席を狙う乗客が、つり革を握って、なに食わぬ顔をして立っている。僕は座る気などはじめから無い。何十人も詰め込まれた車両のなかはとても静かで、電車がレールの継ぎ目を踏む音や、誰かのイヤフォンから漏れる音だけがきこえる。
 朝の乗客は、ひとりひとりが孤独だ。ひとことも喋らず、彼らはそれぞれの職場や学校などの、公的な昼の居場所に輸送される、モノになる。僕もそのひとりだ。公的な僕は、電車を降りてクラスメイトと顔を合わせた瞬間にはじまる。それまではこの電車の中で、生産ラインに載った饅頭のように、目的地まで流れていくだけだ。その間、僕の意識は、僕という肉体をはなれ、とても広いどこかへ行っているような気がする。電車が到着するとその意識は、夢から覚めたかのように、また僕の体の中に戻ってきて、自明で、鮮烈な、現実を思い出させる。僕は電車のドアからはき出され、流れに飲まれたまま階段を上がっていく。

   *

 友達は多い方だと思う。休み時間には自然と人が集まってくるし、先生からの評判もいい。僕は自分のことをいいやつだと思う。傲りではなく、客観的に考えて、お人好しというか、頼まれたら断れない性格だし、そういう自分を嫌いだとは思わない。

「どうして先に行っちゃうかなあ……」
 有里香ありかは不満げにつぶやいた。
「だって、さっきお前いなかったから」
 僕が答えると、「あのね」と強く念を押すように言い返す。
「あたしはトイレへ行ってたの。そのくらい待っててくれたっていいでしょ」と、有里香はあきれたような顔をしてみせる。
「信じられない。どうして昼ごはんを一人で平気で食べられるわけ?」
「ごめんなさい」
 僕はあやまってみた。彼女はしばらく僕を見つめ、ふ、と笑って、
「いいよ。帰り、埋め合わせしてよね」
 急に機嫌を取り戻して、楽しそうに自分の教室へ戻っていった。僕はその背中を見送る。

 『あんたは閉じてる』と、言われたことがある。一昨年、初めて出来た彼女から、半年間付き合った末に突きつけられた言葉だ。彼女に言わせてみれば、僕という存在は、それ自体で完結していて、孤独でいることをなんとも思わないのだそうだ。僕はとても心外だった。孤独は平気なことじゃない。ひとりでいるとき、どうしても誰かの顔を見たくなったり、何のきっかけもなく無性にだれかが恋しくなることがよくある。僕にとってひとりでいるということはとても辛いことだ。
 だが、彼女が言いたかったのはそういう意味ではなかったらしい。もっと、僕という存在の根源にあるもの、理性とか魂とかで言いあらわされるような、僕の意識を形づくるものが、孤独だというのだ。
『あんたが他人を恋するのは、自分のためでしかない。会いたいと思うのは、私に触れたいっていう欲求のためでしかない』
 僕は彼女の言うことが理解できなかった。だから僕は言い返した。
『誰だってそうだろう?』
 僕の理解者だったはずの彼女は、僕のことを理解してはいなかった。僕も彼女のことが分からなかった。それはとても悲しいことだった。やがて僕らは別れた。

   *

 昼休みが終わり、午後の授業が始まる。満腹から来る眠気に耐えながら、板書をノートに書き写す。中間試験が近い。進路にも響く重要な試験なので、ここで気を抜くわけにはいかない。そう思ってはいたが、ノートを走る鉛筆の速度が増していくと、僕の意識はすこしずつ離陸していった。自動筆記をする僕と、窓の外を浮遊する僕。今日の空は青い。快晴ではなく、千切れた雲が微かにかかる、美しい空だ。
 平和な日常。この空の雲のように、音も立てずにゆっくりと流れていく、あたたかい日々。ありふれていて、当たり前で、しかし何よりも心地いい、退屈な毎日。

 突然、僕の眺めていた空が、一瞬のうちに真っ白に染まった。雲の白さではない。空の青色が、漂白されたような白に変わったのだ。そして一度だけ、真っ白な空がストロボのように光ったかと思うと、またもとの澄んだ青色へと戻っていった。教室を見渡したが、誰もそのことに気づいてはいなかった。

 授業が終わると、僕は有里香のことを思い出して、彼女の教室まで足を運んだ。彼女は友達となにかを話しながら鞄に教科書を詰め込んでいて、僕に気づくと、うれしそうに、大きな目で微笑んだ。
 僕は昼食をひとりで済ませてしまったことに対する埋め合わせを要求されていた。こういう場合は何か食べ物をおごるのが定例だが、とはいっても、僕も、彼女も、道草のバリエーションはごく少ないので、行く場所は限られている。たとえば、駅前のアイスクリーム屋だ。そろそろ夏服の季節になってきたので、冷たいものだって美味しく食べられる。

 彼女は自転車通学で、僕は電車通学だ。僕が駅まで歩くのを、いつも彼女が自転車を引いてついてくる。彼女は水色の、僕からしてみれば毒々しい色のアイスを、歩きながら美味しそうになめている。僕は彼女の自転車を代わりに引いてあげる。
「はやく夏が来て欲しいなあ」彼女は言った。
「どうして?」
「なんか、楽しいじゃない。夏って」
 彼女は夏が好きだ。だが僕は、今の季節が一番好きだ。暑くなる前の、まだすこし肌寒い日もある、初夏になりきれていない春。だが季節は、すぐに変わってしまう。
「ねえ、空が光ったのを知ってる?」
 教室から見えた、白い空のことを、僕は尋ねてみた。
「空? 雷でもあったの?」
 彼女はきょとんとして僕を見た。

 駅に着いて彼女と別れ、僕はホームで電車を待つ。同じ制服を着た学生、背広を着たサラリーマン。僕の一日のスイッチはここで切れて、帰宅する集団のなかの一人として、景色にとけ込んでいく。
 線路を一つ挟んだ向こう側のホームで、こちらを向いて電車を待つひとりの男子学生。僕はその姿に見覚えがあった。はじめは誰かは分からなかった。目をこらして、彼を観察する。彼はどこか遠くを見つめている。
 僕に似てるな、と思った。ただ、僕に似た人物という以上のなにかを強烈に感じた。僕はただごとではない気がした。すると、彼の視線が動いて、僕の目と重なった。

 その瞬間、理解した。
 彼は、僕だった。
 不思議と、僕は驚かなかった。目が合い、三秒という時間をかけてお互いの全てを認識し合った。そして、まるで大したことは起こらなかったかのように、『なんだ、そこにいたのか』と、どちらからでもなく、声を出さずに思った。相手が思ったことはすぐに分かった。彼は僕自身だったからだ。
 顔が似ているとか、雰囲気が似ているとか、そういうことは一切関係がない。彼と僕とは、同じアイデンティティを分け合った、同じ存在だった。二つの肉体を持った、一人の人間だった。誰かに教えてもらうまでもなく、ただ目があっただけで、僕らはその驚くべき事実を乾いた綿のように吸収し、例えば空は青いとか、海は冷たいとか、そういう常識で当たり前のことをただ思い出したに過ぎなかった。

   *

 あの、ごく当たり前な体験は、特に心に留まるでもなく、ありふれた日常の一部として切り取られていった。ただ、のちに僕はそれを思い出さざるをえなくなる。世界は、あの日を境に、すこしずつ変わっていったからだ。