因果の部屋 (4)
theroomoftheloop

「どういうことだよ……どうして僕たちは『出られない』って言い切れるんだよ」

 部屋の中にうっすらと漂う、タマネギの腐ったような臭い。ガス中毒を防止するために、本来無臭のはずのガスに人工的に付けられた臭いだ。

「『因果』について、あたしたちが見過ごしていたことがいくつもあるの……」
「見過ごし?」
「そうよ……。……」
「どうした?」

 ユカの言葉は突然途切れてしまった。ユカはうつむいている。やはり、平気であるように見せかけていても、彼女の具合は想像以上に悪いのかも知れない。自分がいくら弱っていても、それを見せようとしないのが彼女なのだ―――。

「なんでも、ない。それでね、続きだけど……」
「……」
「まず、『因果関係は一対一対応だとは限らない』という点。よく考えてみて。たとえば、コインを地面に落としたとするわよね。それによって発生する『結果』は?」
「えっと……『コインが落ちた音がする』、か?」
「そうね。でも、それだけじゃない。『コインが落ちた』という『視覚的』な現象も、立派な『結果』と言えるわ」
「まあ、それは、そうだよな。でもそんなことを言ったら、『結果』なんていくらでも挙げられるじゃないか」
「大切なのは、そこなのよ。『結果』なんていくらでも挙げられる。ましてや、それに対応する『原因』なんて、数の限りではないわ」
「おいおい。『原因』は無限にありうるから、『ドアを開ける』結果には到達できない、っていうことなのか?」
「そう、よ」

「それはいくら何でも極端すぎるんじゃないか? 『水道』にしたって『電気』にしたって、『因果関係が入れ替わってる』ものはみんな、それ相応の事象―――スイッチと蛇口みたいな、わかりやすい『入れ替わり』だっただろ。それなら、組み合わせも限られてくるんじゃないか?」

「そのくらいのこと、あたしだって考えてるわ。この話にはまだ、続きがあるの。『風が吹けば桶屋が儲かる』―――って話、聞いたことあるわよね」
「ああ……。風が吹いて、まきあがった埃が目に入ったから目が悪くなって、みんな目が悪くなったから三味線が売れて、猫が減ってネズミが増えて……ってやつだよな」

「そう。さすがにその例は大げさだけど、つまり言いたかったことは、『因果関係は連鎖する』ってことなのよ。原因は結果を生み、その結果がまた新たな何かの原因になりうるの」
「それは、分かるよ」

「この部屋は―――なにか『意志』をもって、あたしたちをこの部屋から出すまいとしてる……ええ、そうとしか思えない。だってそうでしょ? ドアを開けることはおろか、壁を振動させることすらできないのよ? この部屋の『意志』は、『因果を入れ替える力』のようなものを使って、あたしたちをここに閉じこめておこうとしているの……。そうに違いないわ……」

「……」

「『因果を入れ替える力』の存在。それに、『因果は連鎖する』という事実―――。この二つが意味しているもの―――
 そう、『ループ』よ……。因果の連鎖の、最初の『原因』と最後の『結果』を、因果関係で結びつけてしまう。たったそれだけで、『因果の連鎖』の、『ループ』が完成するわ」

「ユカ……」

「だから、『ループ』なのよ……。これが、『行方知れず』の正体なの……。それ自体で完結した存在……『原因』を必要としない『結果』、『結果』を必要としない『原因』……。そこに『ある』のに、決して『たどり着けない』、入り口も出口もない、閉じた循環……」

「……もういいよ、それに、あまりしゃべらない方がいい」
「ちゃんと聞いてよ、ねえ! 無理なのよ。あたしたちはもう出られない! このまま死んでしまうのよ、こんなところで……。こんなの、あんまりだわ。あたしはまだ、何もやってない。それなのに、死んじゃう……死んじゃうの……。はあ……はあ……どうして、ここはこんなに空気が薄いの……はぁっ……いくら吸っても、息が苦しくなってく……」

 ユカの目は、焦点が定まってなかった。ただごとじゃない。『あたしの頭がまともでいられるのはそんなに長くない』―――僕は、ユカが言っていた言葉を思い出した。

「ガスを吸ってしまったせいで、気が動転しているんだよ。頼むから、落ち着いてくれよ。眠るんだ、今は……。布団を持ってくるよ。この押し入れの中に敷こう。僕はどこか、他のところで寝るよ」

「待って、行かないで、ここで寝ようよ、一緒に……」
 布団を取りに行こうとする僕の袖をつかみ、ユカは子供のように言った。

   *

 水の音。水道から水が勢いよく流れ出す音だった。僕は遠くにその音を感じ、目が覚めた。

 戸を開けたままの押し入れの中から、四畳半の部屋を見下ろす。小さな窓から差し込む光の筋。古びた畳の上空に静かに舞い上がる埃が、朝の光に照らし出されて輝いている。
 ガスの臭いはあまり感じない。一晩たって、空気の下に沈殿しきったのだろうか。それとも、ガスが体を充たして、臭いが気にならなくなったのだろうか。しかし昨晩の息苦しさは、今はすこし消えていた。

 小鳥のさえずる音がよく似合いそうな朝だ。しかしこの部屋に、外の音は無い。窓の外は空き地になっていて、人が通らない。僕たちがここに閉じこめられていることを、世界の誰も知らない。

 僕は押し入れの中からリモコンでテレビをつけた。空気をかき混ぜてしまうことを危惧して、必要以上にこの中からは出ないことを、僕たちは決めたのだ。しかしこの決定は、崩れた『因果』との戦いに降伏を宣言したようなものだ、と僕は思う。
 思考の停止。いたずらに時間は過ぎていく。空腹を水で充たし、残りの時間を、死んだように寝て過ごす生活。いつか助けに来てくれる『誰か』を、ひたすら待ち続けるだけ。
 だが、この部屋に僕が住んでいることを知っているのは、僕の両親と、ユカだけだ。そして、その両親は海外旅行で一ヶ月は帰ってこないということは、僕もユカも知っている。

 水の音はまだ止まない。音は風呂場の方から聞こえてくる。ユカが風呂に入っているのだろうか―――それにしては長すぎる、不自然な音だ。

「ユカー」

 返事がない。様子を見に行ってみるか……。僕は注意深く押し入れから足をおろす。ガスは一体、どのくらい溜まっているのだろうか。踝くらいか……それとも膝まで? いっそ色でもついていてくれれば分かりやすいのに、と僕は思った。

   *

 風呂場。タイルの上に、とかげのように這いつくばっている体があった。
 手を官能的に蛇口に絡め、激しく流れ落ちる水流にかみつくように、それを飲んでいる―――いや、飲んでいるというより、浴びていると言った方がいいかもしれない。水の勢いが強すぎて、口元でほとんどが弾かれてしまっている。飛び散った水しぶきが辺り一面を水浸しにしていた。彼女の着ている服も濡れ、肌が透けている。

 僕の存在に気づいた彼女は振り向く。
 その形相。

 目の下の隈が、眼窩のまわりを深くえぐっていて、死色をした瞳孔の奥に、一点の光が鋭く差している。睨まれ、僕は動けなくなった。そこにいたのは、得体の知れない生き物だった。

 弾ける水の音が、この空間を支配する。ただ虚ろに、僕を見上げるユカ。

「ユ、ユカ」
 声がうわずってしまう。ユカはゆっくりと口を開く。

「ああ、おはよう。ごめんね、起こしちゃったわね」
「あ、う……うん」

 ユカのその言葉が、その様子からは想像できないほどまともなので、僕はとまどう。

「うまく、飲めないのよ……水を、飲みたいのよ、あたし」
 そういうと、また水流にがぶがぶとかみつき始めた。

「うまくいかないわ……どうしてなの」
「コップを……持ってくるよ。その方が、飲みやすいだろ?」
 僕は言った。あまりのショックに、それを言うのが精一杯だった。

「そうね、コップ……。どうして思いつかなかったんだろう」

 コップを持ってきて、ユカに渡した。流れっぱなしの水の中にそれを突っ込むと、水はコップの中を瞬時に充たし、あふれ出した。ユカはそれを一気に飲み干し、またその中に水を注ぐ。それを三度ほど繰り返したあと、唐突にそれを僕に差し出した。

「あんたも飲んだ方がいいわ。お腹空いてるでしょう?」

 伸ばされた手に握られたコップ。水がなみなみと注がれ、いくらかこぼれている。水の向こうにあるユカの顔がコップの曲面に屈折し、ゆがんで細長くこちらをのぞく。僕にはその水が、なにか異質な物に見えてしまい、遠慮しておくよ、と断ってしまった。
 するとユカは、そう? と言ってその水をまた、一気に飲み干した。

   *

「いい加減、あきらめた方がいいわ」
 ユカは言った。その目は、押し入れの戸の裏側を見つめていた。ユカと二人、狭々と押し入れの中に座る僕は、ユカの横顔を眺める。

「諦めるわけないだろ?」
「言ったでしょ? どうしても、ここからは出られないんだから」

「誰かが助けに来てくれるよ、きっと」
「誰が?」
 強い口調でユカは言った。
「誰が助けに来るっていうの? ここに来る人間なんていないわ! あんただってそれは分かってるでしょう」
「大家さんが来るかも知れない。それに、隣の部屋の人とか、遊びに来るかもしれないし」
「推測でものを言わないで! なんの根拠があるっていうの? そんな、ただの希望的観測が何の役に立つわけ? 今必要なのは『事実』……。その『事実』が、『出られない』って言ってるの。だからもう、どうしようもないのよ! どうしてそれが分からないの?」

「根拠がないのはユカの方だろ?」

「……何?」

「『因果』の『ループ』だなんて、僕にはただの言葉遊びにしか思えないよ。それこそ、何の根拠もなく、ユカの悲観が生み出した幻想だよ」

「……」

「そもそも『因果の入れ替わり』なんて、この部屋の事実から僕たちが勝手に作り出した先入観にすぎないとは思わない? そんな言葉の呪縛に捕らわれてるせいで、本質が見えなくなってるんだ……。僕たちが本当に理解してる『事実』は、『水道やガスが入れ替わってること』、『壁が振動しないこと』、そして『ドアが開かないこと』……たったこれだけなんだ。そう、たった、それだけのことなんだよ」

「あたしは……正しい。『因果』は狂ってる」
「そうだね。そうかもしれない」

 僕は押し入れから飛び降りる。

「どこへ行くの?」
「僕、もうちょっと調べてみるよ。この部屋を」
「やめて。無駄に動きまわるのはよして」
「こんな部屋、はやく出てしまおう。……ユカのそんな姿を見るのは、もうたくさんだ」

   *

 時間は流れていく。
 日が落ちるたびにつけてきた壁の傷が、ちょうど十を数えた。

 いくら部屋を歩き回ったところで、なにも見つけることはできない。僕がぐるぐると部屋をうろついているあいだ、ユカは押入の隅でうずくまり、黙っていたかと思うと、突然泣き出したりしていた。
 五日を過ぎたあたりから僕らは完全にしゃべらなくなり、悪化していくのがわかる空気の中で、押入に閉じこもって一日を過ごし、たまに水を飲むことしかしなくなった。ユカの顔色は日を追うにつれ悪くなり、ついにはまったく動かなくなった。

 僕はユカのためにコップに水を汲んできては、口の中に少しずつ入れてやった。ユカは身動きせず、のどをただ小さく動かして、たった少しの水を飲み下した。僕はなにも声をかけてやることができなかった。ユカが動けなくなっていくのと同じように、僕の頭は、まるで麻酔がかかったかのようになにも考えられなくなっていった。苦しいとか、悲しいとか、そういった感情がわき上がってこなくなった。僕は震える足で風呂場まで行き、タオルを絞り、ミイラのようなユカの体を拭いた。

 八日目にも僕は、汲んできた水をユカに飲ませようとした。ユカの口に入れた水は、そのまま力なく口から流れ出した。

 ユカは死んでいた。

 僕は泣いてやることもできなくて、力を振り絞ってユカを運んで風呂場に寝かせ、白いハンカチを、何もかも抜けきった青白い顔に、そっとかけた。


 なあ、ユカ。

 僕たちは、何の因果でここにいるんだろう?