幸福論 XIV
thehappiness

 幸が急に、出会った日のこととか、まだ付き合う前のこと、告白したときのこと、夏の花火大会のこと、海へ行ったことを、あの時は、あの時は、などと語りだした。
 何ごとか、と俺は思ったが、妙に懐かしい気持ちになって、ノイズの混じった受話器越しのその声に、相槌を打ちながら耳を傾けていた。
 そうしたら、三ヵ月も先のクリスマスのことや、年越しのこと、俺の誕生日のこと、バレンタインのこと、来年の夏のこと、そしてその先のことまで、ひとつひとつそれを確かなものにするかのように、ああしよう、こうしよう、だなんて言うものだから、俺は驚いたが、そんな約束はできない、と言うことができるわけもなく、為すがままにそれに、ああ、などと曖昧に返すだけだった。

 そして、
 年は越せないだろうな、
 と、俺は思った。

 その電話を最後に、一週間ほど音沙汰がない。
 最初のうちはメールが一、二通ほど届いたが、一通はたまたま忙しくて、もう一通はなんとなく億劫で、返事を書かないまま忘れてしまっていたら、向こうからも届かなくなった。
 連絡をとらなかったのだから、もちろん、その週末も会うことはなかった。
 忙しいのか、俺に愛想が尽きたのか、それとも俺を試しているのか、とにかく、まあ理由はよくわからなかったが、そんな感じで、終わった。
 いや、本当は終わったのか、終わってないのかすらもよくわからないのだが。
 それでも、生活は何も変わらずに、定型のくだらない毎日を、日々、昨日の事なんかを忘れながら、今だってこうして生きている。
 だらだらと、何ひとつ思わず、悩まず、ただ、生きてる。

 十子と別れたときはたいそうショックを受け、何年もたった今でも、あの幼稚な恋の真似事は、一種のトラウマになって、心の枷として残っている。
 今回の事だって、いまは突然のことに何も感じてはいないが、十子のときのように、何年もあとに思い出しては、枕に顔を埋めて、わめきながら意味のない涙を流したりするのだろう。
 そして、その繰り返し。
 始まっては、終わる。
 その、繰り返し。
 ただ、次の次の次くらいには、もうすこし慣れて、痛みも減るのかな、なんて、くだらない考えが頭をよぎった。

 それから何週間か経ち、もしくは三日と経ってないかもしれないが、とにかく別のある日の学校帰り、夏雄が買い物に行くというのでそれに付き合った。
 いつもの駅から二駅上った駅前、馴染みのゲームセンターの隣にそびえ立つデパート。
「なに買ってあげればいいんかな。俺の可愛い子猫ちゃんに」
 と、夏雄が言うので、首をかしげて訊ねた。
「……なんだそれ。新しい女?」
「違う。比喩じゃなく、子猫ちゃんだ」
「はあ……」
 思わず、気の抜けた返事をしてしまう。
「拾ったのか?」
「拾った」
 エスカレーターをいくつか上り、ペット用品のコーナーにたどり着く。
「生き物なんてやめとけばいいのに」
 俺は言った。
 夏雄は、またたび入り、と書かれた何に使うのかまったく分からない棒状の道具を興味深そうに手に取りながら、なんで、と返事をする。
「すぐ死ぬから」
「……お前ってさ……」
 またたび入りを棚に戻してこちらを向き、夏雄はそう言った。呆れたような目で俺を斜めにしばらく見、はあ、とため息をひとつつく。
「いや、いい。なんでもない」
 夏雄は結局、子猫用の餌と、ボールなどの無難なおもちゃを買い揃え、店を後にした。
「猫ってさ、いいよな……。好き勝手に生きてる感じが、たまんねえよ」
 と、夏雄はいとおしげに言った。なんだか気味が悪い。
「女よりも?」
「お前なあっ……!」
 いい加減、少し怒ったかもしれない。俺は話題を切り替える。
「ところで、その猫なんて名前?」
「……ユキ」
「……」
 絶句。
「あ、言っとくけどオスだからな」
「……」
 さらに、絶句。

 建物を出ると日はとっくに暮れていて、すこし遅い時間になってしまった。と思ったら、駅のホームの時計はまだ七時になったところだった。
 日が落ちるのが、早い。冷えてしまった手に、白い息を吹きかけてあたためた。
 あれだけ苦しんだ今年の猛暑も、冬になってしまえば忘れてしまうだろうのだろうか。

 通勤と通学ラッシュが重なるこの時間、ホームは学生や社会人でごった返していた。
 ゴミのような人の山の中、ふと目をやると、ベンチに座る、見慣れた女子高生の姿を見つけた。
 都奈実。
「何やってんだ、お前?」
「あ……広岸」
 喜んでるのか、それとも見つけられたくなかったのか、よく分からない表情でこちらを見上げる。
「さっき、あんたが誰かと、この駅で降りてくの見たから……」
 そういえば都奈実の学校はこの駅の近くだったか。
「……乗らずに、ずっと待ってたってのか?」
「……」
 都奈実は、相変わらず複雑な顔のまま、返事をせずに黙っていた。返答に困っているのだろうか。
「俺がこの駅に戻ってこなかったら、どうするつもりだったんだよ」
「……いいじゃない。あたしの勝手でしょ」
 照れたように、こちらを見ずにそう言い、都奈実は立ち上がった。電車は丁度やってきた。
 乗り込んだ電車が動き出し、数分経っても、隣に座る都奈実は無言だった。
 何を考えているんだろう。一体何がしたかったんだろう。まるで、分からない。
 沈黙が流れる。乗客が多いにもかかわらず、心なしか、車内は静まり返っていた。
 と、そのとき。

 ぴりり ぴりり ぴりり

 電子音が、三つ、広岸のポケットから鳴った。慌てて携帯を取り出し、マナーモードに切り替え、そのまま、ポケットに戻す。
「……いいの?」
 ようやく都奈実が口を開いた。
「何が?」
「今の。メールじゃないの? 見なくていいの?」
「……」

 今の、メールは、
 電子音みっつの着信音は、
 ほかの誰からでもない、
 幸からの、メール。

 一ヶ月ぶりの。もしくはそれ以上。
 迂闊だった。もう、メールなんて届かないのかと思った。
 いわゆる、自然消滅というものだと思っていた。まったくの、油断。出し抜かれた。俺は、狼狽を顔に出さないように気をつけながら、
「いや、いいんだ」
 と言った。
「……ふうん……」
 興味あるのか無いのか、都奈実は力ない相槌を打つ。
「……返事、返してあげなよ」
「いいんだよ」
 すこし、強い口調になってしまったかもしれない。
 すると都奈実はまたしばらく黙り、それから、なんとなくだけどさ、と呟く。
「……あんたってさ、昔からそうやってすぐに逃げるんだよね」
「は?」
「誰かが傷ついてたり、悩んでたりしても、あんたはその誰かを切り離して、俺は関係ない、なんて、急に他人のふりしちゃうんだよ。人の気持ちを、重荷だと思ったら逃げちゃうんだよ」
「何、わけ分かんねえこと言ってんだよ。それに、今のは……そんなんじゃねえ」
 都奈実の口から唐突に出てきたその言葉が、それが偶然なのか必然なのか―――あまりにも核心をつきすぎているので、俺はそれを否定してしまった。そうせざるを、得なかった。
「お前に、俺の、」
 何がわかるって言うんだよ、
 だなんて、お決まりの幼稚な保身の言葉を吐きかけた、そのとき。
「わかるよ! 分かっちゃうんだからしょうがないでしょ! あんたいつも、電車んなかでメールしてるじゃない、楽しそうに。あたしと喋ってんのに! そういうのがむかつくのよ! あんたは、あたしなんかほっといて彼女とメールしてりゃいいのよ。それなのに何でよ……なんでまたそうやって、逃げてるのよ」
 まったく、わけが分からない。
 何で都奈実はこんなことを言い出して、しかも自分で怒っているんだ?
 ああ―――思い出した。
 こんな状況、前にもあった。
 俺は半ば身に覚えの無いことでこいつに責められて、責められて。
 残ったのは、こうして何年も続くことになる、果てしない後悔と罪悪。
「だから逃げてなんかねえって。何の根拠があってそんなこと言ってんだよ。わけが分かんねえよ」
 否定すればするほど、虚しい気持ちになっていく―――
 そして、都奈実は黙り込んでしまった。
「……」
 しばらくして、
「ごめん……。今日あたし、頭おかしいかもしれない」
 と、都奈実は謝り、それ以上一言もなかった。

 幸からの、メール。俺は、少しの希望もなく、その意味が分かってしまった。
 別れ、だ。幸が、これ以上続けるのを請うようなことをする性質じゃないことは知っていたから。

 幸と付き合うことで、前に進めるようになるんじゃないか、とか、
 幸を大切にすることが、十子への罪の償いになるんじゃないか、とか、
 そんなくだらない俺の心の弱さのために、幸と付き合い、恋愛のようなものを必死に形作ろうとして、結局はこの有様だ。
 俺は逃げてしまった。都奈実の言ったとおり、俺は、逃げたのだ。
 同じだ。結局は、あのときの再現をして、終わった。
 なにひとつ進歩していない、もっとも愚かで救いようの無い選択をしてしまった。
 幸のその気持ちの重さに気付いたとき、幸が抱えてるものすべてを、受けとめてやることができなかった。

 俺にはこんなに愛される資格は無い、なんて、馬鹿げたことを、いつも考えていた。
 好きだよ、と言われるたび、そんな幸を抱きしめるたび、心の中に、罪悪感ばかりが積もっていく。
 自分の欲求を満たすために、幸の気持ちを利用している―――そんなことは決してないのに、俺の中のもう一人の俺が、何度も何度も、そうやって語りかけてくる。
 苦しいんだよ。
 嫌なんだよ。
 なんだ? なんだ俺は? どうして、いつからこんなふうになってしまったんだ。

 家に着き、俺は携帯を取り出した。
 幸からの、メール。その内容は、読まなくても大体わかる。
 いや、そうであってほしかった。
 俺のことを散々罵り、あの口からは聞いたことも無いような言葉で、滅茶苦茶に書かれている、そんなメールが欲しかった。
 何でメールを返さない、何で電話をよこさない、ずっとまってたのに、不安で不安で潰れそうになってるというのに、なんで助けてくれない、
 もうこれで終わりなのか、私たちはまだ付き合ってるのか、いい加減にしろ、お前なんか死んでしまえ。
 どんな言葉が来たとしても、俺は甘んじて受けとめてみせる。
 何ひとつ解決できなかったけど、またぐちゃぐちゃに人を傷つけてしまったけど、
 このメールを読むことが、俺に残された、この恋愛の、最後の仕事だ。

 それなのに。
 たぶんこいつら・・・・は、
 俺をもっとも傷つける方法を、
 きっと、よく理解していた。

 俺はそれを読み、しばらく静止し、
 そして震える手で、携帯を静かに閉じた。

 電気をつけたままベッドで仰向けになっていると、ぼんやりと、初めて彼女を抱いたときのことを思い出した。
 薄い膜越しの彼女の中はとてもあたたかかった。
 全然気持ちよくなんてなかったが、服を着ていたときからは想像もつかないほど柔らかくて小さな彼女のからだに触れているのがとても心地良くて、ただそれを抱きしめているだけで嬉しかった。
 なにしろ驚くべきことばかりで、頭の混乱を必死に押さえ、理性の限りやさしくするのが精一杯だった。
 痛くなかったよ、と彼女は言ったが、それが嘘だということも同時にわかった。
 自分のからだのことよりも、血で汚してしまったシーツの方を心配する彼女がとてもいとおしくて、俺はもう一度抱きしめ、暗い部屋の中で慣れないキスをしたのを覚えている。

 自分よりも二つも若い彼女に接するのは新鮮で、俺はいつも振り回されていたけど、それはきっと楽しかった。そうだ。楽しかったんだ。
 夜遅くまでくだらない話をして、電話代の請求にひやひやしたり、
 彼女の大好きな、意味のないメールの返信に頭を悩ませたり、
 彼女のその一途さに胸を締め付けられたり。
 子供っぽくてわがままで、メールを返すのが遅れただけで拗ねてしまい、その埋め合わせによく苦労させられた。
 しかし、時折見せる、驚くほど大人っぽいあの表情には、まるで俺が彼女の子供になってしまったかのような気持ちになった。
 彼女のあの柔らかいからだに顔を埋めて眠れば、幸せ、としか形容し難い、安堵を得ることができた。あのときだけは、すべてのしがらみを忘れ、俺は、確かに、紛れもなく幸福だった。

 そのときはなんでもないと思っていた些細な出来事。
 その一つ一つが、今ではもう思い出に変わってしまっていることに気付いた。
 つい最近まで、いつでも手に入るものだったのに、今はもう、いくら手を伸ばし懇願しても、それは手に入れることができない。
 俺が悪い。そうだ、全部俺の所為だ。あの時と同じ仕打ちをしてしまっている、と頭では理解していたはずなのに、もう崩れ始めてしまっているなにかを、止めることはできなかった。何年か経った今でも、俺は少しも成長できていなくて、こうすることしか、できなかった。
 すべては、俺が悪い。
 彼女と過ごした日々を、もう取り戻せないものにすることを選択したのは、ほかの誰でもない、俺自身なのだ。そんなことは分かっている。分かってんだよ。分かってるんだけど、俺は、ぽつん、と、言った。

    戻りてえ

 初めて出会ったあのころに、
 ぎこちなく抱き合っていたあのころに、
 好きといわれたあのころに、
 戻りたい と、俺は、言った。

 今度は、今度こそは、絶対に間違えないから。もうこんなふうに傷つけたりはしないから。
 だから、もう一度だけ―――

 見上げた天井が滲んで見えなくなったので、俺は目を閉じた。
 目に溜まったそれは流れ落ちたが、まぶたの裏に、彼女がいた。

 彼女からの、最後のメール。
 だから俺はそれを見たとき、すぐにその意味は理解できなかった。
 だけど、
 ほんのすこし、ほんのすこしだけ、今なら分かる。

 そのメールの、中身は、

 思い出や別れの美辞麗句ではなく、
 恨みつらみの罵詈雑言ですらもなく、

『ありがとう』

 と、
 ただ、その五文字だけが、書かれていた。