幸福論 V
thehappiness

 全体的に色素が薄く、背が小さくて、無口で、大人しくて。
 思えば十子は、幸とはすべてが正反対だった。
 都奈実という、過去の人物との再会によって、広岸の心は再び、忘れかけていた十子のことが頭から離れなくなっていた。
 そのせいか最近は、幸を抱くたびに、十子のことを色濃く思い出してしまうのだ。
(最低だ、俺は。抱いている最中に他の女の事を考えているなんて)
 広岸は、しかも自分に罪悪感が無いことにまた自己嫌悪した。
(幸はこんなに俺のことを好きでいてくれる。俺はそのことに応えなければならない)

 十子のどこに惹かれたのか、そんなことは覚えていない。
 ただ、夢中だった。

 授業中に熱心に手紙を書きあったり、夜隠れて長電話をしたり。
 どちらも内容はかなりどうでも良いことで、誰々の好きな人がどうとか、今日前の席のヤツがどうとか、部活で何をしたとか、果てしなくくだらない内容だ。
 重要なのは中身ではなく、お互いコミュニケーションをしていることがうれしくてたまらないのだ。
 席替えを細工して隣同士にしたこともあった。

 毎日が新鮮だった。楽しかった。生活や視点のすべてが十子中心だった。
 それが自然だった。この関係に終わりが来るなんてことは、微塵も考えたことは無かった。
 当たり前に、こんな毎日が永遠に続くものなのだと、何の疑いもなく信じていた。
 何より、広岸の十子への愛より、十子からの愛の方が大きかった、と広岸は思っていた。
 十子は常に広岸の一歩前にいた。
 いくら勉強しても十子には及ばなかったのと同じように、どんなに十子のことを好きになっても、十子はそれ以上に自分を好きでいてくれる。
 そんな安心感があった。

 十子は、優しい女だった。
 あのころ、毎日のように都奈実や男友達と馬鹿ばかりやっていた広岸を、やんちゃな弟を見るような、優しい目で見守っていてくれた。
 広岸は分かっていた。十子がそんな自分の子供っぽいところが好きだったという事を。
 しかしそれは広岸には、辛いことだった。

 はやく、十子に追いつきたい。
 はやく、大人になりたい。
 大好きな人に、下に見られていることが、耐えられない。

 心の奥底で感じていたそのことは、日を追うにつれ、十子との毎日を過ごしていくにつれ、段々と表面化していく。
 十子の存在が、プレッシャーとして重く、少しずつ少しずつのしかかってくる。
 きっかけなんて無く、その輝いていた日々は、終わりに近づいていった。

「何? 話って。どうしたの」
 放課後に呼び出した十子は、いつもの口調、いつもの笑顔で広岸を覗き込んだ。
 しかしそれは、逆に不自然だった。
 十子は、勘のいい女だった。俺の考えてる事など、すでにまったく見抜かれている、と広岸は思っていた。
「……別れよう」

 十子の事を嫌いになったわけではない。むしろ好きだった。
 しかし十子と付き合ってる限り、十子にはいつまでも追いつくことはできない、と思った。
 十子という存在の重さに、耐えることができなくなったのだ。
 今考えてみれば馬鹿みたいな結論だったが、あのときは本当に、こうすることでしか、この重圧から抜け出す方法を見出すことができなかった。

 でもきっと言葉が、少なかった。
 別れよう、と広岸が言うと、十子は、
「うん」
 とだけ言って頷いた。心なしか、笑顔は少しだけ曇って見えた。

 ショックだった。
 自分が、別れよう、と言ってのけたこと。
 何の反発も無く、それを十子が受け入れたこと。
 でも十子のそれが、大きな勘違いであったことに気付いたのは、後のことだった。

 その夜、電話がかかってきた。
 驚いたことに、十子ではなく都奈実からだった。
「見損なった」
 都奈実の第一声は、そんな言葉だった。
 心臓をぎゅっと握られたような、恐怖と緊張が走った。
「あんた、何考えてるの? 何でそんなことするの?」
 震えている、その声。怒りを押し殺し、打ち震えている。
「十子、泣いてた……あんなふうに、十子があんな風になるなんて」
「……お前には関係ねえだろ。お前に、何が分かるんだよ」
 半信半疑でつい言ってしまったその言葉に、都奈実は堰を切ったように広岸を責めはじめた。
「じゃあさ、あんたに十子の何が分かるって言うの!? あんた、十子がどれだけあんたのこと好きだったか、知ってるの? 毎日毎日、今日は広岸がああしただの、こうしてくれただの、そんなことばかり聴かされてたんだよ? あんなに嬉しそうな十子見るの、初めてだったから、あたし、毎日、嬉しかったし……悔しかった。あたしが八年かけても、十子のあんな顔、見たこと無かった。それなのに、突然現れた、わけわかんないあんたみたいのが、いとも簡単に、あの子の笑顔を奪っていくなんて……。それでもあたし、いいと思った。あんた、悪い奴じゃなかったから。あたしもあんたのこと、嫌いじゃなかった。それなのに……それなのに、どうして裏切るようなことするの? ずっとあのままでいちゃいけないの!?」
「……」
 あのとき、都奈実が何でそんなに怒っているのか、よく理解ができなかった。
 “付き合う”“恋人同士”の関係を解いて、元の“仲のいい三人”に戻りたかっただけなのに。
 どっちかどれだけ好きとか、そういうのに耐えられなくなったから、また友達としてやり直したかっただけなのに。
 それなのに、これが“裏切り”だって?

 翌日、十子は学校に来なかった。
「どうしよう、十子、休んで―――電話も通じないし……。もし十子になんかあったら、あんたのせいだからね」
 都奈実はキッと広岸を睨んだ。
 広岸は家に帰り、急いで電話をかけた。しかし、繋がらなかった。
 何度かかけても、故意に切られているような感じがしたので、意地になって何度も何度もリダイヤルをした。

 何十度目かのリダイヤルで電話はふいに繋がり、広岸はだいぶ慌てた。
「……はい」
 十子の抑揚の無いその声は、がらがらに枯れていた。その声を聞いた瞬間広岸は、ようやく、事の重大さに気付いた。
 学校を休み、こんな声になるまで、十子は泣き明かしていたのだ。その事実だけで俺には、十分過ぎるほどの罪がある、と。
「十子、俺、あのさ、」
 言葉に詰まっていると、十子は、
「どうしたの?」
 と、心底心配したような口調で言った。
 どうしようもなく、胸が、締め付けられた。今一番辛いのは十子なのに。それなのに十子は、俺の心配なんかしている。
 俺は、なんて言えばいい? こんな十子にかけられる言葉なんて、俺は持っているのか?
「もしかして私のこと、心配して電話してくれたの?」
「あ……」
「ごめんね私、こんな声だけど、今日休んだのもただの風邪だから、ね? 心配しなくていいよ?」
 なんて、事だ。十子は俺に心配をかけまいとしている? こんな分かりきった嘘までついて?
「嘘だ。じゃあ……じゃあ何で電話出なかったんだよ」
「……」
 十子は黙ってしまった。嘘をついたことを認めるその沈黙は、広岸にとっても、辛い、辛い意味を持った沈黙だった。
 静かな電話のノイズの中、十子の小さな息だけが、ただ聴こえる。
 今一体何をするべきなのか、分からなかった。言うべき言葉も、待つべき言葉も、すでに持ち合わせてはいなかったから。
 でも今やれることは、ただ、一つしかなかった。
「ごめん、十子」
「なんで謝るの?」
「嫌いになったわけじゃないんだ」
「……」
 違う。俺の言いたいことはそんなことじゃない。
「俺は、ただ、友達に戻りたかったんだ。そんでまたさ、都奈実と三人で、前みたいにさ」
 何を言っても、何を言っても、考えてることは口を出た瞬間、言い訳のように惨めに響いてしまう。
「……いいよ」
「え?」
「ほんとはずっと前から気付いてたんだ、広岸の気持ち。だから、謝らなくても、いいよ」
 悲しいほど枯れた、その声。泣かないように、精一杯明るく振舞っているのが分かった。
「広岸が、そうしたかったんでしょう? 広岸がしたいようにしていてくれるのが、私には一番のしあわせだよ」

 十子は語りかけるように、また自分に言い聞かせるように、やさしく、確かにそう言った。

 ―――私には一番のしあわせだよ。

 その夜、広岸は眠ることも忘れ、十子とのはじまりを辿るように、いつまでも泣いた。
 十子の残酷なまでの優しさと、自分の愚かさを抱いて。

 時はいつの間にか通り過ぎ、広岸は中学三年生になり、受験を間近に控える身となった。
 二年生の頃から、十子に追いつこうと必死になって勉強してきた甲斐もあってか、難関とされている志望校へも合格確実と言われるほどだった。
 しかし、十子は―――。

 十子とは、あの最後の電話以来、交流がまったく途絶えた。
 同じクラスにいるのに、十子は広岸を、まるで見えていないかのように扱ったのだ。
 話すことはおろか、目が合うことすら、無かった。
 あれから和解した都奈実を通して、まれに十子の話を耳にする程度だった。
(これが 俺の 望んだことだったのか? どうして 十子は 話してくれない? 元には 戻れないのか)

 あるとき、廊下の角でばったりと十子に遭遇した。
 あれ以来初めて、目があったのだ。あまりに突然のことにどちらも、ひどく狼狽した。
「……よ、よう、十子」
 十子の瞳孔が一瞬、大きく開いたかと思うと、広岸の横を何も起こらなかったかのように通り過ぎようとした。
「待てよ、おい!」
 強引に腕を掴み、十子を引き止める。
 振り返った十子の、その細く、弱々しい二の腕。
 悲しさをいっぱいに蓄えた眉。
 泣き出しそうに、怯えた、絶望と、悲愴とが入り混じった瞳。
(なんて、顔をするんだ―――)
 すべての要素が悲しみに作用している、この顔。
 一生、あの顔を忘れることは、ない。
「あ……」
 腕をすり抜け、逃げるように走り去る十子を止めることはできなかった。

 それが、十子との、最後の接触だった。
 それ以降の十子の転落ぶりは、思い出すだけでも辛い。
 あんなに頭が良くて、広岸がいくら勉強しても追いつけなかった十子は、成績上位者の名簿から、すぐに消え去った。
 都奈実の言うには、成績も次々と落とし、入る高校すらも危ぶまれるほどになった。
 県外の全寮制の私立女子高へ、やっとのことで合格した、とのことだった。

 張り出された、合格発表。
 広岸の受験番号の隣には、十子のそれが、あるはずだった。
 ともに合格したことを、手を取り合い喜んで、ともに三年間を夢見て。
 しかし十子は、受験すらすることができなかった。
(なんだ、こ れ)

 ―――一緒に、合格できるといいね。
 まだ付き合い始める前、十子に勉強を教わっていた時のことを思い出した。
 十子と一緒の高校に行きたくて、がむしゃらに勉強してきたんだ。
 それなのに、この有様は何だ?
 俺一人の合格に、何の意味がある?
 この虚しい、馬鹿みたいな結末は、一体何なんだ?

 人とヒトの繋がりは、こんなにも脆く、簡単に崩れてしまうのか?
 なんで終わってしまった!? なんで終わらせようと思った!? 教えてくれ! どこで、俺は間違えた!?

 景色は吸い込まれるように流れていき、気がつけばそこは夕暮れの、二年生の教室だった。
 俺の目の前で、微笑みかける、忘れもしない、あの日の、十子。
『私達、付き合ってるのかな』
 ああ、なんだ。

 あのとき、始めなければ よかったんだ

 始めなければ ずっと あの ままで いられたのに

 始めなければ 終わること なんて なかったのに