12 朝倉美佐奈
MisanaAsakura

 美佐奈は何の前触れもなく突然高校を辞めて家を出た。
 美佐奈の家庭は極々普通の家庭だった。サラリーマンの父と、専業主婦の母。四つ離れた妹。何も問題が見あたらない善良な一家だった。美佐奈はそんな家族の一員として、ごく普通の生活をしていた。
 だけど美佐奈は気づいてしまった。自分が他人と違うことに。この不合理な世界の歪みに。その結果、美佐奈は特殊な精神病にかかった。とは言っても、正式な病名があるわけではない。これは彼女特有の症状だった。
 美佐奈は、繰り返しを嫌う
 『安定』『慣れ』―――そういったものが怖くて仕方がない。
 これが彼女の心の病。
 まず彼女は学校生活に我慢が出来なくなった。美佐奈の言ったとおり、学校は『繰り返しの象徴みたいな場所』だ。毎日毎日同じような授業を受け、いつもと同じ顔ぶれと、毎日同じ話をして、同じ時間に切り分けられた生活を送る。変化のない、繰り返しの毎日。美佐奈にはとても耐えられるものではなかった。だから美佐奈は学校を辞めた。
 しかし、学校を辞め、家を出て、一人暮らしを始めても、待ち受けていたのはやはり繰り返しの毎日だった。彼女はアルバイトを同時に三つ掛け持ちし、必死になって働き始める。彼女はアルバイトは初めてだった。しかし学校以上に、社会は安全で退屈なものだった。一人暮らしにしても、新鮮味があるのは最初のうちだけで、慣れてしまうに連れ、安定し始めた生活に嫌悪感を感じるようになった。
 美佐奈はようやく気づいた。繰り返しが人生の本質なのだと。全ての努力の目的は適切な定常状態を得るためのものだと。あらゆるものは安定を勝ち取りたいがために存在しているのだと。
 だから美佐奈はさらにその事実に刃向かった。最初に始めた三つのアルバイトは一ヶ月目で全部辞めた。そして、また新しい仕事を始める。その仕事もまた、一ヶ月経ってすべて辞めた。このように、彼女は一ヶ月おきにアルバイトを丸ごと切り替えることにしたのだ。こうすることで彼女は、出来るだけ常に新鮮な気持ちを持ち続けるようにして、繰り返しの毎日を送ることを避けた。
 また、美佐奈は三ヶ月ごとにアパートを引っ越した。毎回それほど遠くには行かなかったけれど、『慣れ』というものをとことん嫌悪していた彼女には、同じ場所にそれ以上長く住むことは耐えられなかった。
「ほんとは一ヶ月おきにでも引っ越ししたいんだけどね。でも引っ越しは、お金かかるから……」と美佐奈は自虐的にも見える笑みを浮かべていた。
 彼女の生活は、全て引っ越しという行為に集約され始めた。引っ越しを繰り返すうちに荷物は減り、必要最低限度のものしか持たなくなった。一ヶ月間働いた給料の殆どは当然引っ越しの資金に注ぎ込まれる。そうして彼女は遊牧民のように、各地を点々とするようになったのだ。
 しかし、それも長くは続かなかった。一年ほどそんな生活を続けるうちに、それすらも慣れ始めたのだ。毎月一度バイトを総切り替えして、三ヶ月に一度住処を変える。それすらもパターン化してしまい、安定した生活の一部になってしまった。飽きてしまったのだ。そうなってからは彼女はどんどん異常になっていった。クスリに手を出し始めたのも同じ時期だった。しかし彼女は薬物による逃避は本質的なものではないことをちゃんと知っていた。薬物では彼女は完全に救うことが出来なかった。一時的な快楽の後には、しっかりと残酷な現実に引き戻されるからだ。
 彼女はもう完全に行き詰まっていた。生き詰まっていた。僕らが出会ったのは、その頃だった。
 僕は自分の家を出て美佐奈の部屋に同居するようになった。彼女の七つ目のアパートに。彼女はそのときは丁度引っ越してきたばかりだったが、すぐにまたアルバイトの面接に出かけて次の日から働きだした。それでも彼女の仕事ぶりは意外と熱心で、彼女の働くレストランに一度冷やかしに行ったが、百戦錬磨の営業スマイルで見事にスルーされてしまった。
 彼女とのアパート暮らしはしばらく続いた。僕も近くの本屋でアルバイトを始め、生活費にした。美佐奈は料理が出来なくて、放っておけばバイトの賄いかパンの耳しか食べないので、僕が料理を覚える羽目になった。でもあまり上手くはならなかった。
 美佐奈は時々僕に、「嫌になったらいつでも帰っていいよ」と言った。彼女としては自分のおかしな行動のために他人を巻き込みたくなかったのだ。だけど僕は帰らなかった。帰りたくはなかった。美佐奈の純粋さを手助けしてあげたかったのだ。
 そう―――彼女は何もおかしくなんかないのだ。ただ彼女は人一倍純粋だっただけ。まるで感度の強いフィルムのように敏感だっただけ。精神をすり減らしてすり減らして、次々に自分を削っていく。そして最後にはリンゴの芯みたいに彼女の精神はやせ細ってしまったのだ。

 一緒に暮らし始めてから二ヶ月経った頃、彼女はさらに豹変し始めた。食も細くなり、元々細かった体が見る見るやつれていった。彼女は、僕と同居してからの最初の一ヶ月間に勤めた、レストランと家庭教師と試食販売と倉庫整理のバイトを辞めてからは、次のバイトを探そうとせずに、部屋にこもりがちになった。僕はその間も本屋で働いていた。だが働いている間も彼女のことが心配で仕方がなかった。そしてその心配は結局杞憂では済まなかった。美佐奈はクスリを買う金も無くなり、暇つぶしのような感覚でリストカットをするようになった。僕が帰ってくるとよく彼女の左腕には傷が増えていた。そう言う日に限って彼女は随分機嫌が良かった。気味が悪いほどに。
 さらに何日かすると、彼女はそれすらもしなくなった。毎日家から一歩も出ずに、布団の上で寝たきりになった。そうなるともう彼女は生きているのか死んでいるのかもよく分からない状態で、虚ろな目をしたまま、殆ど動かなかった。
 僕はバイトを減らして、彼女につきっきりになった。美佐奈は時々布団から起きあがって、部屋の隅にうずくまって何かぶつぶつ言った。何を言っているのかは分からなかった。僕が話しかけても、彼女はまともな返答をしなくなった。事態はどんどん悪化していた。美佐奈が頭を狂ったように掻きむしるので布団の上には毛髪が大量に落ちていた。僕は黙って彼女の看病をした。彼女はよく泣いた。一日の半分くらいは泣いていた。彼女の摂取した水分の殆どは涙で消費されているのではないかと思うくらいに。その間に僕がしてやれることなんて言ったら、頭をなでてやるか、求められるままに彼女と交わるくらいしかなかった。
 ある日僕が美佐奈を風呂に入れてやっているときに、彼女は久しぶりにまともな言葉を口にした。その最初の言葉は、「あれ……?」という呟きだった。
「なんで、私……生きてるの?」掠れた声で、美佐奈は言った。「私、もう生きたくなんかないのに」
 そのときの僕は彼女の痩せた背中をスポンジで優しく洗っていた。思わず僕の手は止まる。
「私の、心臓……何これ。なんで動いてるの? 気持ち悪いよ……。私、動かそうなんて思ってないのに、勝手に……」
 美佐奈の皮膚は青白く、あばらや背骨が生々しく浮き出ていて、彼女の骨格がありありと分かる。
「美佐奈」僕は出来る限り優しく言った。「大丈夫だから」
「何が大丈夫なの?」彼女はヒステリックに叫んだ。「適当なこと言わ―――」彼女の言葉は突然途切れ、表情も瞬時に暗転した。「違う。違う。言葉が、こんなんじゃない……」彼女はうずくまって自分の髪の毛を強い力で下に引っ張る。「ねえ、私、何のために生きて……。この先も生きてれば、いつかはきっといいことがある? 馬鹿じゃないの? いいことなんて、あるわけない! だって、私、こんなんだもん。もう、一生こんなんだよ。裸でさ、一人でお風呂も入れなくってさ! どんどん、何も出来なくなって、辛かったことも、正しいことも、全部すっからかん、忘れちゃうに決まってる。ねえ、クスリ買ってきて……。お金なら、いつか絶対払うから。私、狂ってると思ったでしょ? ねえ、私変なふうにみえるでしょ? きゃははははははははははははははははははははっ。じゃーん、残念でしたー、今までの、全部演技でしたー! って! 心配したでしょ。だから、また、元通り、学校も行くし、お母さんにも謝るし、お父さんにも謝るよ。って! 全部、ほら、じゃーん、って元に戻るんだよ。そんで私は今までの変なことは全部忘れて、幸せ! って。だからごめんね、騙してた、ははっ、ねえ! 笑えよ! 何だよ、なんて顔してるのよ! 泣くなよ、もう! おい! なんとかいえよ、違う、ちが……そうじゃなくって……。どうして。私、こんな、みんなに迷惑ばっかりかけて。こんなの、意味無いって、ほんとは分かってるんだよ。ああ……、言いたければ言えばいいのに。死にたいって言っちゃえばいいでしょ! 言ってよ、正直にさ、『死にたい』って! 何で、みんな、普通のフリなんかしてんの? あっ……。ごめんなさい。ねえ……ごめんなさいっ。早くクスリ買ってきてよ。ちが、違うの! 私が言いたいのはこんな事じゃないの。言いたくないの、こんなこと。違う……。脳が腐る……馬鹿になっちゃう。分かんないよ……。ううっ。ううう。何を言ったらいいの? 私は何をしたらいいの? 私はどうすればいいの? もっと生きてなくちゃ駄目なの? 何のために? ねえ、私が、間違ってたの? なんなの? もう……分かんないよ。全部……」
「美佐奈」
 こんな僕に出来ること。
 痩せた彼女を抱きしめて。
 愛しい彼女の名前を呼んで。
 他に何が出来ただろう?
「みさな」
 僕と美佐奈は似たもの同士。
 やっと見つけたもうひとりの僕。
 どこかで失くした僕の片割れ。
 僕の代わりに彼女が壊れ、
 彼女の代わりに僕が言う。
「僕と一緒に、死んでくれる?」

 生まれてから十八年が経って、僕と美佐奈はいつの間にか二人、世界から切り離され、こんな孤独な場所に追いやられてしまっていた。あらゆるものを否定して、なにもかもを拒んだ結果、身動きひとつとれなくなってしまった。もう逃げる場所すらも無い。だから、もう、これが最後の場所。その次はない、終わりの場所。
「久の江へ行こう。ふたりで、一緒に、だよ」
 彼女は僕を見つめたまま、何も言わなかった。そして僕の胸に顔をうずめ、ただ静かに頷いた。