10 雉間里春 2
SatoharuKijima

 雉間里春が消える前、僕と彼はよく『階段裏』に行った。『階段裏』とは、高校の校舎の、三階から屋上へ上がる階段の裏側の事だ。そこは、壊れた机や本棚など、粗大ゴミの置き場になっていた。だからその奥にあるドアの事など、誰も知らなかった。もちろんそこには鍵がかかっているが、どこから仕入れたのか雉間はピッキングの技術を駆使してあっという間にドアを開けてしまったのだ。その部屋は階段の内側の部分なので、屋根が斜めになっていてとても狭い。男が二人も入るともう一杯だ。本当は部屋の中にも粗大ゴミが詰まっていたが、それは全部ドアの外に放り出した。明かりは無かったが、階段裏の部屋にしては、窓がひとつあって、中は明るかった。つまり、絶好の喫煙スポットというわけだ。
「久の江って知ってるか」
 あるとき雉間はそう言った。階段裏の狭い部屋の中で。僕はそのとき窓から身を乗り出して煙草を吸っていた。窓は校舎の裏側にあって、その下の道は滅多に人が通らない。
「クノエ?」耳慣れない単語だった。
「ひさ、の、え、って書いて『久の江』」分かりにくい説明だった。どうやら漢字らしい。
「何、それ?」と僕。
「地名だよ」雉間は壁にもたれて座っている。彼は煙草の箱をとんとんとんと叩いて、一本取り出した。「まあ、知らんだろうな……」
「で、その久の江とやらに、一体何があるんだ?」僕は訊いた。
「それなんだ……」と雉間。「とにかくいろんな噂がある。知ってる奴にはちょっとした有名スポットなんだ。幽霊が出るとか、妙な磁場があるとか、なんだっけな、もの凄い価値のある新種の麻薬が隠されてるとか、殺人鬼の一族が棲んでるとか、未だに山賊が出るとか、ね。昔、そこに首都機能を移転するとかいう話があったんだが、あまりにも曰く付きなんで、政府の人間が行きたがらなかったほどらしい」
「なんだよ、それ」僕は笑った。「お前、そういうの好きだっけ?」
「いやあ、そうじゃないんだけどよ」雉間も苦笑いする。
「その久の江ってのはどこにあるの?」
「俺も探してみた。だけど地図にはなかなか載ってない。そんぐらいマイナーな場所って事だ。でも『江』っていうくらいだから地形は限られてくる。で、ようやく見つけた。羽立内海《はだちうつみ》に面した小さな集落だ。海と山に囲まれた、大したこと無い土地だった。人が住んでんのかどうなのかもあやしい」
「羽立内海……」かつて無名だったその海の名前を知らない人間は、もう日本にはいないだろう。だって、そこは……。「って、あの羽立内海か?」
「そうだ。今度の羽立内海大地震のあの羽立内海だ
 羽立内海、大地震。
 昨今の地震予測技術の発達によって、地震の確実な予測が出来るようになって久しい。それは、いくつもの大震災を予知し、この地震大国から何万人もの命を救った偉大なる技術だった。しかしその技術は、幸か不幸か、過去最悪の地震を予言することとなった。それが羽立内海大地震だった。推定マグニチュードは7.2と、過去の大震災と比べても目立つ数字ではないが、その震源地の震度は―――あまりの大きさに測定不能。今までの地震とは一線を画す程の破壊力なのだ。まさに前代未聞の地震だった。この技術を開発したチームの代表者は、この震災の威力を深刻に受け止め、『半島がひとつ削り取られるくらいの威力だ』と表現した。
 勿論そんなところに住んでいたら確実に死んでしまう。大被害が予想される区域の住民には『避難命令』が下され、一ヶ月ほど前に対象住民は全員避難を終えたと発表があった。地震の時期は、今年の十月二十日が有力とされている。誤差は大きくてもプラスマイナス二週間。その期間の間に、その大地震は必ず訪れるのだ。
「な?」雉間は言った。「なんか面白いだろ?」
「どこが?」僕にはさっぱり分からない。
「ここだって、羽立内海からかなり離れてるけど、それでも『震度4』予想だからな。でも震度4じゃ人は死なない。俺はな、はっきり言って、久の江についてのオカルトな噂には全く興味がない。そんなものはどうだっていい。むしろ、俺が惹かれるのはその、地震のほうだ」
「地震?」
「陸地のうちで最も大きな震度になるのが久の江なんだ。今まで誰も見たことも聞いたこともない大きな大きな地震だ」雉間はライターを弄びながら言った。「それって、どんなんかな、と思ってさ」
「外に出てたら、大丈夫なんじゃないの?」僕は言ってみた。「地震つっても、雷じゃあるまいし、地面が揺れたくらいで直接死んだりはしないだろ。家が崩れたりさ、火事が起きたり、そうやって二次的な災害の方が危ないんだろ、地震ってのはさ」
「甘い。甘ーいね。外にいても津波が来たら全部流されて終わりだ。それに、今回の地震ってのはそんなレベルの話じゃあないんだな、多分ね。テレビで、専門家の奴らは、『羽立内海大地震で地図が変わる』とまで言ってる。なんだかよくわからんが、久の江のあたりは、あんまり土壌がよくないらしい。だから、ばっくり、削られて、終わりだ。信じられるか? そもそも、地球の陸地ってのはそうやって少しずつ少しずつ変化してきた。だけど人類が生まれて文明がちょっと栄えたくらいの短い歴史ん中では、地形が変わっていくところなんてそんなに目の当たりに出来なかったわけだ。だけど今回の地震ってのは、まさに、そういう瞬間なんだ。地形変動が起こるんだぞ。そりゃあ、そんなところにいたら、死ぬさ。間違いない」
「ふうん……」僕はその様子を想像してみる。ハリウッド映画にそんな感じのものがあったような、なかったような……。アメリカが大災害に襲われて、果敢なアメリカ人が命がけで女性を守って、最後は結ばれて終わり。そんなチープな物語が頭をよぎった。「いまいち、ピンと来ないな」
「だろ?」雉間は新しい煙草に火を付ける。「正直、俺にも想像がつかない。だけどさ、よく考えてみろ。現実味が感じられないのは、目の前に迫ったそんなSFチックな地震だけじゃない。この世のあらゆるものは、もうリアルじゃなくなってるんだ。小説も、映画も、本来の物語なんかどっかいっちまって、もう記号だけが取引されてる状態だ。そうだろ? 現実だって同じだ……。わけのわからん事件とか頭のおかしい変な奴とか、社会がこんなふうにアンリアルになったせいで、がんがん出てくんだろ。次々とよ。物事を記号でしか見れなくなったカスどもが集まって社会作ってるんだから、ずっと直らねえわな、この体質はこの先もずっと……。この学校も同じ。なにもかも、本当のもんを見失ってるんだ。だから、今回の地震は、大きな転機になる。強烈な現実で、ちっとは、目が覚めるんじゃねえかな、社会も、もちろん俺らも」
「うーん……」雉間の持論はいつも分かるようでよく分からない。社会と、地震と、そして僕らと、一体何の関係があるのだろう。
「な。ちょっと、行きたくなっただろ、久の江」
「全然」僕は首を振る。「第一、危なすぎるだろ、そんなところにいたら。間違いなく死ぬぞ。活火山の火口でバーベキューするようなもんだ」
「―――」
 がたんごとんがたんごとんがたんごとん。
 学校沿いの線路を電車が走っていった。その大きな音に雉間の声はかき消された。
「ん? 何か言った?」
「いんや」雉間は笑った。

 本当は聞こえていた。雉間が言ったその言葉。
 僕は聞こえないふりをしていたのだ。
『自分で死ぬよりは楽だ』
 耳を塞ぐことと、目を反らすこと。生きていく上で重要な技術なのだ。
 雉間は何を思って僕に久の江のことを話したのだろうか。
 僕がその深みを知ることは多分無い。

 日が暮れ始めて僕らは階段裏の部屋を出た。見つからないようにこっそりと……。粗大ゴミでドアをカムフラージュするのを忘れずに。僕らが夕暮れの廊下を歩いていると、雉間のテニス部の顧問に見つかった。
「先生、世の中ってクソっ垂れですね!」と雉間は苦し紛れに言った。
「うるせえ、馬鹿なこと言ってないで部活来いボケ」と怒鳴って先生は雉間のケツに思い切り蹴りを入れた。廊下に良い感じの打撃音がスパーンと響いた。
「痛いですよ先生! 体罰反対!」雉間は抵抗するが容赦なくずるずると引きずられていった。僕はそれを見送りながら腹を抱えて笑った。