08 鱸貫一
Kan-ichiSuzuki

 久の江に来てまだ間もなかった頃、僕らは食べ物を探すために久の江じゅうを歩き回った。久の江には海沿いに数軒、山の方に数軒、家があった。もちろん家にはもう誰も住んでいなかった。海の方の家はまだ比較的新しくて、人が最近まで住んでいた形跡があった。僕がまず手始めに、青い屋根に白い壁の一戸建てに入ろうとしたとき、美佐奈は、やめようよ、と僕を止めた。
「どうして?」僕は訊いた。
「もしかして戻ってきたらどうするの……」と美佐奈は言ったけどもちろん誰かが戻ってくるはずはない。
「本気で言ってるの?」
「だって……」
 尻込みする僕はそのドアノブに手をかける。しかし―――もちろん鍵がかかっていて空かなかった。
「ほらね」と偉そうに無い胸を張る美佐奈。何がほらね、か。
「しょうがないな……」僕は周りを見渡して手近な物を探す。庭の方の窓を破れば入ることができる。大きな音を立てて割っても、何か物を盗んでも、罪に問われることはまずあり得ない。僕は適当な大きさの岩を拾ってきて窓に向かって放り込む。しかし岩が重くて力が入らなかったせいか、ガラスに大きな亀裂が入っただけだった。僕は右足のかかとでひびの中心を小突いた。ガラスは部分的に割れ落ちたけど、つららのように鋭い破片が枠に残っている。僕は窓枠をがんがんと蹴ってそれらをある程度落とした。その様子を美佐奈が黙って見ていた。
「仕方ないよ」と僕は言った。それは自分を納得させるための言葉のように響いた。罪の意識は消えなかった。だがそれは仕方のないことなんだ。僕は自分を言い聞かせる。
 僕は土足のまま家の中に入った。だが美佐奈はついてこない。
「来ないの?」僕が言うと、美佐奈は黙って頷いた。
 中はもう、完全にもぬけの殻といった感じだった。リビングはがらんとして、フローリングの上には何一つ存在しなかった。そこにあるべきテレビも、カーペットもソファも、なにもかも既に持ち出されたあとだった。
 キッチンに入った。やはり食器棚をみても、皿どころかスプーン一本入っていない。そこは完全に空き家だった。古い型の冷蔵庫だけが残されていたが、中を開けても、電源の入っていないただの空箱だった。
 結局収穫はなく、その家には食べられるものは残されていなかった。割れたガラス窓から外に出ると美佐奈は庭に立って待っていた。
「なんか……こういうの、違うと思う」美佐奈は言った。僕は美佐奈の横を通り過ぎて次の家を探す。

 驚いた。
 住宅地の道路の真ん中で、真っ黒に日焼けした漁師風の老人が立って僕を睨んでいた。
 僕はすぐにその老人が現地の人間であることに気づいた。そんなまさか? 久の江の住民は全員、ソトに避難したはずなのに……?
 老人は僕を上から下までじっくりと睨んでから、凄味をきかせて言った。「小僧」
「…………」僕は何も言わなかった。
「いつかはそういう人間がやってくるとは思っていた」老人は言った。「見たところ、三日は食ってないという感じだな。人様のものを盗ってまで生きたいのなら、どうして久の江なんかに来た」
「それは……」
「帰れ。ここはもう終わった場所だ。手前らみたいな若い人間が来るところじゃあない。手前らみたいのなら本当の家に帰れば食べるものくらいあるだろう」
「ごめんなさいっ」美佐奈が駆け寄ってきた。「もう二度と、こんなことしません」
「美佐奈……」
 老人は僕らを一分くらいの間睨んで、「手前ら、ちょっとこっちに来い」と言って歩き出した。僕らは顔を見合わせて、その老人の後に付いていった。

 僕たちが連れて行かれた先はその老人の家だった。それは大きな洋風の家で、どうやら二世帯住宅のようだったが、老人は独りでそこに住んでいた。
 老人は名前を鱸《すずき》といった。漁師の家に生まれ、漁師として育ち、これまで漁一筋で生きてきたという。だが二十年ほど前に時化《しけ》で船が難破し、仲間とはぐれ、命からがら泳いで辿り着いたのがこの久の江だった。彼はこの久の江が気に入り、元の街には帰らずに、彼はこの海沿いに家を構え、娘夫婦とともに漁業を営みながらひっそりと暮らしていた。
 しかし彼のその頑固さ故に、娘夫婦とは衝突することもしばしばだったという。
「俺はあいつらを恨んではいない」と老人は言った。「永らえてもどのみちこの体ではもう漁は出来ない。それに何処にいたって死ぬのには変わらない。俺は久の江が好きだ。ここで死ねるなら何も文句は無い」
 久の江には店が一軒もない。だから買い物をするには山を越え、車で片道三時間かけて町まで行くしかない。彼は一人で車に乗り、買い出しに出かけていた。
 避難命令の出たあの日も、彼は町に出ていた。
 年老いた彼の面倒を見ていた娘夫婦は、その僅かな間に久の江を去った。
 久の江に帰ってきた彼を出迎えるものは誰もいなかった。
 自衛隊のヘリコプターが流す避難命令の放送と、彼をおいて誰もいなくなったこの家を見て、彼はすべてを理解したという。彼は自衛隊が去るまで、家の中にじっと隠れていた。僕にはそのときの彼の心境を想像することが出来なかった。
「はなから久の江には人なんて殆ど住んじゃあいなかった。だけどこんなクソ不便なところにわざわざ住んでるってことは、俺もそうだが、みんなそれなりにここに住む訳があった。久の江は、大昔……まだ侍がいた時代、身分を持たない人間や、罪人たちの隠れ里だった。もともと久の江はそういう場所だった。妙な噂が今でも絶えないのは、そういういわれがあるからだ。だが、ここは本当はいいところだ。住人同士もお互いを避けるようにして尊重しあっていた。俺は馴れ合いが嫌いだ。だからここの異常なまでの排他的な雰囲気が気に入っていたんだ」
「あの大きな学校は、どうしてあんな場所にあるんです?」僕は訊いた。彼はいちいち僕をぎろりと睨む。もともとそういう目つきなのかもしれない。
「あれを見たのか。さっきも言ったように、ここは卑しい身分の奴らが集まる場所だった。それに目を付けた偽善家の金持ちが、そういうガキどもを集めて勉強させていたんだ。あの学校自体、あまり良い評判は聞かなかったがな。廃校になってから、随分経つ……。とにかく、ここに住む奴はここにしかいられない奴ばかりだ。だから国に出てけと言われても、黙って言うことを聞く奴ばかりじゃなかった。何人かは命令のあとも残っていた。だけど自衛隊は徹底的に民家を調べ上げて、残ってる奴を片っ端から久の江から追い出していった。結局そのとき追い出されずに済んだのは三人だけだった。俺もなんとかこうして逃げ延びたんだがな。俺はここの最後の一人というわけだ」
「他の二人はどうしたんですか?」美佐奈は訊いた。
「つい最近死んだ。あいつら、俺も敵わねえくらいの偏屈だったがな。一人は元々おかしい奴だったんだが、そいつは気が狂って舌噛んで死んだ。もうひとりは栄養失調で倒れてそのまま御陀仏だ」
 彼の語ったそれは想像を絶する世界だった。僕は息をのんだ。僕が足を踏み入れたのは、そういう世界なのだ。
「小僧。手前は何のためにこんなところまで来た?」鋭い目つきで鱸老人は言った。「観光気分ならさっさと帰るんだな」
「友達を探しに来たんです」僕は言った。「彼は……雉間は、きっとこの久の江にいると思うんです」
「…………」老人は目を閉じた。
「あの……」美佐奈が声をかける。
「食い物ならある。好きなだけ持って行け。そのかわりもうあんな真似はするんじゃねえぞ。それと、久の江は狭くて広い。車も一台、くれてやる」
「え……?」僕は思わず聞き返した。
「どうせ俺が持っていてももう役には立たん」老人は静かに言った。「呼んで済まなかった。あとは勝手にやってくれ。体の調子が悪い。俺はもう寝る」