06 久の江 3
living in Qnoe

 朽ちた校舎の中は、しんと冷たかった。不気味な静けさが中を満たしている。傾き始めた日が廊下の窓から覗いてて、比較的明るかった。
「ねえ、大丈夫かな」美佐奈は言った。
「何が?」
 建物の造りはそれほど悪くない。確かに老朽化も目立つが、木造で板張り廊下、という古さではなく、ちゃんとした鉄筋コンクリートでリノリウムの廊下だった。いきなり校舎が崩れて生き埋め、なんてことはなさそうだった。だが、それにしても、この雰囲気……。
「なんか出そうだな」僕はぽつりという。美佐奈は僕にべったりくっついている。
「だよねえ……」
 僕らが入ったのは正面玄関だった。そこには木製・蓋付きの靴箱が何列も並んでいる。靴のままで上がると、目の前は突き当たりで、左右に廊下が延びている。廊下の手前側には各部屋が、向こう側には中庭があるようだった。
 暗く埃っぽい廊下を土足のまま歩く。二人分の足音だけが聴こえる。それにしても、この雰囲気―――なにか尋常ではないものを感じる。幽霊が出そうだから怖い、というのは正しい表現じゃない。ひび割れた壁、くすんだ死色の天井、死体のそばにいるようなひんやりとした空気……。そういった表面上のわかりやすい部分だけではない。それとは別に、なにか気持ちの悪い気配がある。それは死人の眠る墓場の気配ではない。静かな殺意を煮やす、生きた気配だった。美佐奈はこの気配に気づいているのだろうか?
 僕は怯える美佐奈の耳元に突然「ねえ、今、変な音聴こえなかったか?」と囁いてみる。もちろん美佐奈を驚かすための冗談だった。美佐奈は驚いてびくん、と体を硬直させて立ち止まった。効果はあったようだ。
「やっぱり、聴こえた……、よね? そうだよね? ねえ? いるよ、なにか……絶対!」
「え?」予想しなかった反応だった。美佐奈の耳には何が聴こえていたのだろうか? 耳を済ませてみたが、僕には何も聴こえなかった。美佐奈の幻聴だろう、おそらく。しかしそれは仕方のないことだ。この廃墟、この雰囲気……。脳が何かを見せたとしても不思議じゃない。
「いないよ。ここは」僕は震える美佐奈の手を掴んで力強く引き寄せる。冷たい美佐奈の手……。美佐奈の体が僕にひっつく。小さくて柔らかい感触。「誰もいない。僕と美佐奈だけだよ」
「ちょ、っと」美佐奈は僕の体を引き離そうと拒む。「やめてよ。こんなところで……」
「何が駄目なの?」
「こんな、廊下だよ? 見られちゃうよ……」
「誰に?」僕は意地悪く言う。「幽霊? 殺人鬼? それとも神様に?」
 この場所には、いや、久の江にはもう、人なんて住んでない。
「うう……。やめようよお。こんなの、い―――」僕はその唇を無理やり塞ぐ。と、同時に、下半身の最も大事な部分に強烈な衝撃を感じた。
「が!」叫んで、立っていることも出来ずに僕はひざから崩れ落ちた。うつぶせだった。股間を押さえながら。なんか変な涙とか出てきた。
「死ね!」
 遠くで声が聞こえた。走っていく足音。走り去っていく、消えていく音……。ああ、美佐奈、待って。置いていかないで……。

   *

 股間はまだ痛む。これって大丈夫なのだろうか。医者に見てもらったほうがいいのだろうか。いつまでもうずくまっているわけにもいかず、なんとか立ち上がる。
「いてて……」そして、周りを見渡す。「どこだ、ここ……」
 廊下の真ん中。ここは、四階だった。廊下の右手に沿って延々と並ぶ教室には、『1-A』『1-B』といったプレートが掲げられている。一年生の教室のようだ。左手はガラス窓になっていて、薄暗い中庭が見える。美佐奈とぶらぶら散策しているうちに随分奥まで来てしまった。このシンプルな構造の建物で道に迷うなんて心配はないが。しかしいつまでもこんなところで遊んでいるわけにはいかない。日は随分落ちて、外はもう闇に近い。完全に日が落ちる前に帰らないと、厄介なことになるだろう。久の江にはもう電力の供給もない。一度日が暮れたら完全な闇の世界が待っている。さっさと美佐奈を見つけてこの廃墟から出なければ。それに―――こんな気味の悪い場所、一刻も早く立ち去ってしまいたい。
「美佐奈ー」僕は大きな声を出す。僕の声は廊下をエコーしてたちまち廊下中に響く。
「…………」
 しかし、反応はない。そんな遠くに行ってしまったのだろうか? 美佐奈とはぐれてから、五分と経っていない。まだそんなに遠くには行っていないはずだが。僕は仕方なく歩き出す。
 どこかの教室に入っているのだろうか。右手にある教室の扉を開けてみることにする。『1-C』の教室だ。しかし―――その扉は鍵がかかっていてドアは開かなかった。すべての教室が施錠されているのだろうか? 僕は隣の教室もその隣の教室も確かめてみたが、出入り口のドアと廊下に面した窓にはしっかりと鍵がかけられていた。教室の窓ガラスを少しこづいてみると、頼りない音が返ってくる。薄いガラスのようだったので割ろうと思えば簡単だ。磨りガラスになっていて中の様子は見えない。
 それにしても、空気が悪い。肌にまとわりつく湿度。埃っぽい臭気。死体みたいに冷たい空気。

 そのとき突然左腕に熱い衝撃が走った。一瞬おいてそれが痛みだと分かった。見れば二の腕の外側に切り傷があった。背筋に寒気が走ってから、傷口から脳髄にかけて痛覚が爆発した。感じたことのない強い痛みだった。
「―――あ、ああッ?」僕は思わず叫んで腕を押さえる。
 それは、後ろだ。背後に、それがいた。僕はあわてて振り返ってそれを睨みながら、壁を背にして逃げるように後ずさりした。背後に立っていたのは学生服の少年だった。僕より小柄で、浅黒い肌の少年は、追いつめられたようにカッターナイフを構え、震えながら僕を睨んでいた。カッターナイフからは赤い血が滴っている。僕の、血。
「てめえ……何なんだ? どうしてここにいる?」少年は精一杯な感じの低い声で威嚇するように言った。
 僕は切られた腕を押さえながら「お前は誰だ?」と質問を返す。赤黒い血が次々と沸き出す。傷口が熱くなって体中は寒い。あちこちから変な汗が出てくる。
「質問に答えろよ……こら」少年は凄んだ。
「お前な。いきなり切りつけるなんてどういうことだ? こうみえて僕は今凄く怒ってるんだ。滅茶苦茶痛いじゃないか。質問がどうしたって? 関係無いね。お前は僕を攻撃した。言っておくけど、僕は殺すときは殺すよ」頭は異常なまでに冷静だった。「まず僕の質問に答えろ。お前は久の江の人間か?」
 刃物を構えた人間。傷を負った人間。優位関係が入れ替わる。
「違う……」怯えたように彼は言った。「久の江の人間なんてもういない」
「何のためにここにいる?」すかさず僕は次の質問をする。
「……てめえと同じだ」少年は呟く。「てめえも、あれを探しに来たんだろう?」
「何のことだ?」
「とぼけるなよ……。知ってんだろ?」
「『あれ』というのはこの学校にあるのか?」
「あるね……。その証拠にてめえがここにいる。違うか?」
「お前、頭悪いだろ?」傷口がどんどん熱くなってくる。火傷みたいに。
「うるせえ。てめえも……ソトの人間だろ。いつこっちに来た?」
「答える必要はないね」僕は言った。冷静に振る舞ってはいるが右腕が痛くてたまらない。すぐにでも頭がおかしくなりそうだ。この少年をなんとかして、はやく治療しないと……。僕はとりあえず右の脇に左手を挟んで止血する。さて、どうする? 思考が高速に回転する。「ところで、どうも……この学校はおかしい。そうは思わないか?」
「近づくなよ!」少年はカッターナイフを突きつけながら後ずさりする。
「訊きたいことが山ほどあるんだ。何しろ―――久の江には誰もいないと思っていたからね」
「俺だって、そうだ」と少年は言った。僕はじりじりと間合いを詰める。だが少年はその分後ずさりするので距離は縮まらない。右手の壁にトイレの入り口が見える。
「お前の他にも、誰かいるのか?」と僕は訊ねる。
「さあな……」
「答えろよ」僕は思いきり睨む。
「なんでだよ!」少年は子供っぽく叫ぶ。「あんたはさっきから何も答えないじゃんか!」その仕草に僕は思わず笑ってしまいそうだった。
「あー」僕は右手を挙げる。「悪かった。答える」
「あんた……何だ? 何かおかしいぞ? よく変な奴だって言われないか?」
「心外だね。僕は普通だよ。誰がどう見ても普通を絵に描いたような男の子だ」
 はっ、と少年は鼻で笑ってみせる。
「質問はそれだけか?」僕は言った。
「あんたは何者だ? なんで久の江なんかにいる?」
「その二つの質問に対する答えは、僕自身にも分からない。僕は自分が何者なのかを知らないし、なんで久の江なんかに来なくてはいけなかったのか、僕は未だに分からないね……」
「誤魔化すな……」
 そのとき、少年の浅黒い肌がすっかり青ざめているのに気づく。
「次は僕の質問だ。いい?」
「…………」少年は黙った。
「どうして僕を切りつけた?」
「そうしないと、ころされるとおもったから……」少年は、ぶるぶると不自然に震え始める。
「君は正常か?」
「せいじょう……」少年は上の空のように呟いた。目の焦点が合っていない。そして彼は後退しながら、ふらふらと壁の男子トイレに入っていった。
「おい、どこへ行く?」僕は彼を追ってトイレの中に入る。
 少年は中で倒れていた。小刻みに痙攣していた。
「おい」僕は恐る恐る少年に駆け寄る。
「くすり……ぽけっとの……」少年は呟いた。
「薬?」僕は彼の学生服をまさぐって、その薬を探した。それは右のポケットに入っていた。携帯用の透明なピルケースだった。錠剤が三錠だけ入っている。彼にそれを渡すと、彼は震える掌にその三錠を全部落として、口の中に放り込み、嚥下した。
「はは、あははははははははははははははははははははははははははは」彼は棒読みのように奇妙に笑ってから、咳き込んだ。しばらく、ぜえぜえと息を整えてから、彼は言った。「正常なやつが|久の江《こんなところ》に来るわけねえだろ。どっかで狂ったんだ。俺も、あんたも。だから、ここに来るしかなか―――えふっ。だって、げふ、おふっ、絶対死ぬじゃんか、こんなところにいたらさ!」
「…………」僕は立ち上がった。「そうだね」
「どこへ行く?」倒れたままで少年は言う。
「どこにも行かないよ。どこにも行けないから、ここにいるんだ。そういうことだろ?」僕は廊下に出る。もう日は完全に落ちていて、空気は闇色に染まっている。窓の外から月明かりが僅かに注ぐ。学校は夜の廃墟としての顔を見せ始めた。
「糞ッ垂れ!」大きな声がトイレの中から飛んできた。
 僕は激しく痛む右腕を押さえながら、ふらふらと廊下を歩いていった。